親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

2020年親鸞会降誕会・追悼法要の内容を参加者はどう受け取ったのか(顕正新聞2020年9月1日号より)

shinrankaidakkai.hatenablog.com
前回の記事で、2020年親鸞会 降誕会・追悼法要の内容について書きました。


今回は、その行事の内容について書いた顕正新聞の内容から、親鸞会会員はどのようにその話を受け取ったのかを書きます。

最初に「論説」にどう書かれているを大まかにまとめて書きます。

  • 自力とは何か、他力とは何か。
  • 自力とは阿弥陀仏の本願を疑ってい心(疑情)のことである。
  • 無明の闇とは、死ねばどうなるか分からぬ心。
  • 「他力」とは、無明の闇を破する弥陀の不可思議の願力のみを言い、自力の心(疑情)を切り捨てて、極楽往生をハッキリさせてくださる力である。
  • この自力(疑情)一つが、生死流転の本源なのだ。自力を捨てて、他力に帰し、往生一定の絶対の幸福になることこそが、人生出世の本懐なのである。

自力とは何かとは書いてあるものの、自力と無明の闇の関係はよくわかりません。

参考に、法友通信(高森会長への御礼状)から、どんな内容かを紹介します。

講師部員A
(略)
「自力」とは「弥陀の本願を疑っている心」だけ、とお聞きしました。
(略)
誰も知らない、しかも親鸞聖人のみ教えにおいて極めて重要な「自力」「他力」について明らかに聞かせて頂き、本当に有り難うございました。


講師部員B
(略)
「自力」とは「弥陀の本願を疑っている心」であり、これだけを「自力」といわれることがよく分かりました。
(略)
自力の心は一念で無くなり、同時に他力に帰する。これが「真宗の極致」であり、われらが出世の本懐であることをお伝えしていきます。

会員C
「自力」とは、「弥陀の本願を疑っている心」だけをいうと、ハッキリ聞かせて頂きました。
(略)


論説と法友通信に共通しているのは「自力とは阿弥陀仏の本願を疑っている心」という点でした。
無明の闇と死んだらどうなるか分からない心と自力の心の関係については、あまり文章として明確に書かれていませんでした。

これらから今回の高森顕徹会長の話は、「自力とは阿弥陀仏の本願を疑っている心」だということを話した内容だと分かりました。

しかし、それで以上何もなかったとも言えます。「真宗の極致」という演題に対して、「自力とは阿弥陀仏の本願を疑っている心。以上」では何の救いもありません。とはいえ、高森顕徹会長の話の多くはこのような感じです。法友通信も「○○と聞きました有り難うございました」という内容が殆どです。
自力は何によって捨てさせられるのかということや、何によって他力に帰するのかという話はありません。

数年前まで高森顕徹会長が法話型式で話をしていたころに、毎回聖人一流章を讚題で述べていました。それに関する話は今は全くありません。

聖人(親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ。そのゆゑは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。その位を「一念発起入正定之聚」(論註・上意)とも釈し、そのうへの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章5帖10通)

「もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命」したのが、自力を捨てて他力に帰するということです。
「自力の意味がわかりました」とは随分意味が違います。親鸞会の会員の方は、自力の意味を知りたくて会員を続け、高森顕徹会長の話を聞いているのでしょうか。そうだというのならば、特に言うことはありません。しかし、阿弥陀仏の御救いにあって浄土往生する気持ちが残っていれば、このまま会に留まり続けるのが自分にとってよいことか、悪いことか一度考えて見て下さい。

阿弥陀仏はただ今助けるとよびかけられています。ただ今救われて下さい。