親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

顕真の特集「歎異抄をひらく」の肝要を学ぶ。を読んで思ったこと(顕真2020年7月号)

親鸞会機関誌 顕真2020年(令和2年)7月号を読みました。
この号は目次から一部引用しますと以下の記事が掲載されていました。

特集1
コロナ禍に教えの光
オンラインで歓喜広がる


特集2
歎異抄をひらく」の肝要を学ぶ
全章を貫く「他力信心」
ここに着目!「仏願に疑心あることなし」の信心


講師試験 問いと答え

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この特集1では、オンラインで如何に活動をしているのかというものでした。
ネット中継や海外の人への伝えてきた実績が掲載されていました。
そのなかでも目を引いたのは、親鸞会公式タブレット端末の使い方のベージです。
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ネット中継と、親鸞会提供の動画、書籍に特化した端末をさらに使いやすくするにはどうするかの方法がことこまかく書いてありました。
70代以上の会員でもネット中継を一人で視聴できるようにサポートする方法が詳しく書かれてあり、こればかりは携帯ショップの店員の説明よりも目的が絞られている分分かりやすいと思いました。

特集2「歎異抄をひらく」の肝要を学ぶ について

もう一つの特集は「歎異抄をひらく」でした。歎異抄 (聖典読解シリーズ 7)が発売されたことから改めて、「歎異抄をひらく」についての解説でした。
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特集と言っても紙面の7割は、「歎異抄1章」について高森会長の話を聞いた会員からの法友通信でした。
それ以外は、「歎異抄をひらく」からの転載で、何を主張したいのかがよく分からない記事でした。

一応「ここが他の解説書との決定的な違い」として比較が載っていました。
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これも、沢山ある歎異抄解説書の中から特に親鸞会の解説と違うものをもってきているので余り意味のない比較です。それに現代文というのはあくまで原文にそってするのが普通なので、それ以上のことは普通の歎異抄解説書は、その後の解説部分で書いていることです。

この顕真特集2の最後は、歎異抄をひらくからの引用で締めくくられていました。
それについて一部引用して書きます。

(略)
このように親鸞聖人の信心は、我々が「疑うまい」と勤める「信心」とはまったく違い、“弥陀の本願に疑い晴れた心”を弥陀より賜る、まさに超世希有の「信心」であり、「信楽」と言われるゆえんである。
この「他力信心」以外、聖人の教えはないから、「信心為本」「唯信独達の法門」と言われるのだ。(了)
歎異抄をひらくP150より)

ここで気になるのは

“弥陀の本願に疑い晴れた心”を弥陀より賜る、まさに超世希有の「信心」

です。


ここで「信心=弥陀の本願に疑い晴れた心」という等式を使って書いている文章ですが、それは

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(教行信証信巻末 浄土真宗聖典註釈版P251)

https://bit.ly/32cC0B5

を踏まえて言っているものです。それについては今回の顕真特集の前半にも書いてありました。


ただ、ここは本願成就文の「聞其名号信心歓喜」について親鸞聖人が解釈されたものです。南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いのが「聞」であり、信心とは聞いたことだといわれているところです。


“弥陀の本願に疑い晴れた心”を弥陀より賜るとは?

しかし、「歎異抄をひらく」の文章は「“弥陀の本願に疑い晴れた心”を弥陀より賜る」とあるので、阿弥陀如来より賜る「如来信楽(仏心)」を指しているものと思います。そうなると、「阿弥陀仏が“弥陀の本願に疑い晴れた心”」が「如来信楽(仏心)」ということになり、意味が通らない文章になります。なぜなら、阿弥陀仏阿弥陀仏の本願をずっと疑っていて、その疑いが晴れたのが「如来信楽(仏心)」ということになってしまいます。
阿弥陀仏は、全ての人を救うことができるかどうか分からない、ひょっとしたらできないかもしれないと疑いをもって本願を建てたのでしょうか?そして本願が成就した時に「まさか出来るとは思ってもいませんでした」とか「相当ヤバかったですがなんとかできました」と思われたのでしょうか?


本願文の信楽について、親鸞聖人はこのように書かれています。

次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。
(略)
なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。(教行信証信巻本 浄土真宗聖典註釈版P235)
(現代文)
次に信楽というのは、阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、すべての功徳が一つに融けあっている信心である。このようなわけであるから、疑いは少しもまじることがない。
(略)
なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。

https://bit.ly/3h7w2pq

ここで言われているように、阿弥陀仏が私を救うことに一切疑い無い(疑蓋間雑あることなし。疑蓋雑はることなき)のが「如来信楽」です。


その「如来信楽(仏心)」は具体的にには、南無阿弥陀仏となって私を「ただ今助ける」と呼びかけてくださっています。ですから、阿弥陀仏から賜るのは“弥陀の本願に疑い晴れた心”ではなく、「私を救うことに一切疑いない阿弥陀仏の心(南無阿弥陀仏)」です。


それを私が疑って聞き入れない間は、その南無阿弥陀仏も信心も私の上には届きません。そこで、南無阿弥陀仏をを聞いて疑い無いとは、南無阿弥陀仏をそのまま聞き入れた状態をいいます。そこで「如来信楽(仏心)」が私の上に届いて下さっているのを信心といいます。「ただ今助けることに疑い無い」南無阿弥陀仏を疑い無く聞くと「ただ今助かることに疑い無い」信心となります。

「『歎異抄をひらく』はここが違う」と親鸞会は強調しないほうがいい

今回の顕真で「歎異抄をひらく」はこれだけ他の解説書と違うということを強調していました。しかし、上記に解説をしましたが、「他の解説書が書いていないことを書いている」というのは、普通に考えれば解釈は二つしかありません。

  1. 他の解説書全てが間違っている。
  2. 歎異抄をひらく」だけが間違っている。

熱心な親鸞会会員の方は(1)だと思われることでしょう。しかし、残念ながら(2)が実態です。
今回の顕真のように「ここが違う」と強調すればするほど、「歎異抄をひらく」が如何に歎異抄をひらいていないかが明白になっていきます。


ここまで読まれた熱心な会員の方には、他の歎異抄解説書を一度読まれることをお勧めします。

歎異抄 (聖典読解シリーズ 7)

歎異抄 (聖典読解シリーズ 7)

歎異抄 (聖典セミナー)

歎異抄 (聖典セミナー)