親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「私たちの曠劫流転の元凶こそが、自力の心なのだ。それは、死んだらどうなるかハッキリしない後生暗い心であり、阿弥陀仏の本願を疑っている心である。」(顕正新聞平成29年12月1日号論説より)が間違いな理由

顕正新聞平成29年12月1日号を読みました。以下思ったことを書きます。
今回も、論説について書きます。
全文は、以下の画像を読んで頂ければ分かりますが、今回もタイトル「加茂河に捨てて魚に与うべし」と、内容が一致しない論説となっていました。この論説については、何度も書いていますが会員以外の読者が読めばどう感じるかという意見を書いています。
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今回の論説で気になったのは以下の部分です。

私たちの曠劫流転の元凶こそが、自力の心なのだ。それは、死んだらどうなるかハッキリしない後生暗い心であり、阿弥陀仏の本願を疑っている心である。
この自力の心が、南無阿弥陀仏の名号を頂いた一念に殺され、永久の迷いの打ち止めがなされるのだ。
同時に絶対の幸福にガラリと生まれ変わって往くから、「即得往生」といわれれる。(略)

(K)

このあたりに、高森会長の話術といいますか、教義のすり替えがよく現れています。
まず「曠劫流転の元凶こそが、自力の心なのだ」としながら、その定義が「死んだらどうなるかハッキリしない後生暗い心であり、阿弥陀仏の本願を疑っている心」だとしています。
自力の心とは、「阿弥陀仏の本願を疑っている心」ではあっても「死んだらどうなるかハッキリしない後生暗い心」ではありません。そこを、二つ同時に並べているあたりが、いかにも高森会長らしい言い方です。

なぜこの二つは同時にならべることが出来ないかということについて、単純にご文を用いずに日本語として説明をします。

  • 自力の心がない=阿弥陀仏の本願を疑っている心がない(無疑心)

となります。

しかし、

  • 自力の心=死んだらどうなるかハッキリしない後生暗い心

とすると

  • 自力の心がない=死んだらどうなるかハッキリする後生明るい心

となります。


そうなると、以下の等式は成り立つでしょうか?
阿弥陀仏の本願を疑っている心がない(無疑心)=死んだらどうなるかハッキリする後生明るい心

私も親鸞会にいたのでよく分かりますが、これが成り立つと思うからこそ、こんな論説も堂々と書くことができるのです。


こういう書きかたをすると、論説の作者や親鸞会会員の方もよくわからないと思いますので、また、別の説明をしてみたいと思います。

阿弥陀仏の本願を疑っている心がない(無疑心)」と「死んだらどうなるかハッキリする後生明るい心」はイコールにならない理由

まず「阿弥陀仏の本願を疑っている心がない(無疑心)」とは、本願が中心となり、本願に誓われている通りの内容に私の思いを挟む余地がないということです。
それに対して「死んだらどうなるかハッキリする後生明るい心」は、あくまで「私がハッキリした」ということが中心の話となり、「後生どうなるか」「死んだらどうなるか」は「私がハッキリしたかどうか」が問題になっています。

あくまで、「無疑心」とは、「私がハッキリしたかどうか」が問題ではありません。「本願まこと」が聞き入れられるかどうかなのです。ここまで書いて分からない親鸞会会員の方も多いと思いますが、よくよく読んで見て下さい。