親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「無明の闇=後生くらい心ではない」と自著「なぜ生きる」の間違いについて釈明をはじめた高森顕徹会長(2020年08月10日親鸞会館降誕会より)

2020年08月9日(日)10日(月)と親鸞会館にて、降誕会・会員追悼法要が開かれました。

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親鸞会20200809-10降誕会しおり

9日は、過去のビデオ法話の上映でした。演題は「真の先祖供養とは(歎異抄第5章)」。
10日は午前中のみ高森顕徹会長が4ヶ月ぶりに会員の前に姿を表しての話がありました。といっても、別室からの中継という形で、当日会場にいた人も画面を通してしか高森会長の姿はみていません。演題は「真宗の極致」でした。

以下、参加された方から聞いたことから思ったことを書きます。

内容としては、「いまの真宗においては、もつぱら自力をすてて他力に帰するをもつて宗の極致とする(改邪鈔2)」を通しての話でした。

今回強調していたのは、「無明の闇と自力は精密に言うとイコールではない」「親鸞聖人は、無明の闇と自力を同じように使われているところもある」でした。


親鸞会会員でも、ここ最近会員になった方には何の為にこんな話をするのかよく分からなかったと思います。
結論からいうと、今回高森顕徹会長が強調していた話は、著作「なぜ生きる」で書いていた「無明の闇=死後が分からない心」についての路線変更というか修正であったからです。

なぜ生きる

なぜ生きる

「なぜ生きる」は2001年に発刊された、高森顕徹会長の著作です。一応著者は別の人で、高森顕徹会長は監修という形になっていますが、親鸞会の会員は誰でも「高森先生の著作」と思っていますし、事実そうです。

この「なぜ生きる」の特徴は、「苦悩の根元=無明の闇=死後にくらい心」の強調でした。

(4)診断ー苦悩の根元は「無明の闇」

(5)無明の闇とは「死後どうなるか分からない心」
無明の闇とは、「死んだらどうなるか分からない、死後に暗い心」をいう。
(「なぜ生きる」より)

では、元々「無明の闇」とはどういう意味なのでしょうか?
浄土真宗辞典には、「無明の闇」はないので、「無明」の部分を紹介します。

むみょう 無明
愚痴・無知ともいう。真理に暗く、縁起の道理を知らないことをいう。あらゆる煩悩の根元となるもの。十二因縁の第一支。三毒の一。浄土真宗では、本願を疑い仏智を明らかに信じないことを無明という場合もある。

ここで、仏智を明らかに信じないことを、同じく浄土真宗辞典では

ふりょうぶっち 不了仏智
阿弥陀仏の五智を信じないこと。明信仏智に対する語。
(略)
親鸞は本願を疑惑する自力の行者のすがたをあらわしたものとし(以下略)

とあります。

このように、「無明」「無明の闇」には、元々「死後にくらい心」の意味はありません。

それにも関わらず、「なぜ生きる」は「苦悩の根元=無明の闇=死後どうなるか分からない心・自己にくらい心」という等式を前提として、読者がそう思うように文章を書いています。

「なぜ生きる」第二部には「無明の闇」は72回出てきます。その中からいくつか、どういうように説明されているかを抜粋して紹介します。

一言で言えば、
「苦悩の根元である無明の闇が破られ、“よくぞ人間に生まれたものぞ”と生命の大歓喜を得ること」
である。聖人の著書は決して少なくないが、これ以外、訴えられていることはない、といっても過言ではなかろう。(「なぜ生きる」より)

このわが身知らずの自己に暗い心も「無明の闇」である(「なぜ生きる」より)

「もしまた、このたび疑網に覆蔽せられなば、かえりてまた、昿劫を逕歴せん」
 苦悩の根元の「無明の闇」を、ここでは「疑網」と言い、
「もしまた今生も、無明の闇の晴れぬままで終わっていたら、未来永劫、苦しみつづけていたにちがいない。危ないところであったなぁ」
(「なぜ生きる」より)

無明の闇を「二心」といい、つぎのように、それは、説かれる。
「一念」というは、信心、二心無きが故に「一念」という  (「教行信証」)
(「なぜ生きる」より)

十一章で述べたように、無明の闇がぶち破られ、人生の目的が達成されると、二つのことが同時に明らかになる、と親鸞聖人は説かれている。
 本当の自己の姿(機の深信)と、もう一つは、弥陀の誓願まこと(法の深信)である。
(「なぜ生きる」より)

「死後のハッキリしない無明の闇を破り〝極楽浄土へ必ず往ける〟大安心・大満足の身にしてみせる」
ということである。
(「なぜ生きる」より)

誓願不思議に救い摂られ,無明の闇が晴れると,つぎの二つのことがハッキリする。
「金輪際,地獄ゆきと,疑い晴れる」(機の深信)
「極楽へ,必ず往けると,疑い晴れる」(法の深信)
 この二つが,同時に疑い晴れている心だから,「機法二種一具の深信」(二種深信)
といわれる。
(「なぜ生きる」より)

帰命の一念を発得せば、そのときをもって、娑婆のおわり臨終とおもうべし
                          (『執持鈔』)
「無明の闇が破れたときが、心の臨終、葬式である」
 弥陀の救いの一念を表現された、覚如上人の言葉である。
 後生明るい心の生まれたときを、「帰命の一念発得」と言い、その時に、苦しめて
きた後生暗い心が死んでしまうから、「娑婆の終わり臨終」と言われている。
 長らく苦しめてきた親玉を「生死流転の本源」と言い、無明の闇を「自力の迷情」
と言いかえて、鮮やかな一念の救済を、見事な筆致でこうも記されている。
(「なぜ生きる」より)

 定散の自心に迷うて、金剛の真信に昏し。(『教行信証』)
 「念仏を称えていても、無明の闇が晴れていないから、あざやかな真実の信心がわからないのだ」
(「なぜ生きる」より)

御覧のように、本の冒頭から「苦悩の根元=無明の闇=死後どうなるか分からない心・自己にくらい心」とした上で、親鸞聖人の書かれたものから別の言葉も「無明の闇のことだ」と言い替えています。

上記にあげたもので言えば、
「疑網」「二心」「定散の自心」をそれぞれ「無明の闇」のことだとしていますが、どれも「死後が分からない心」の意味はありません。
いずれも、疑情・自力心として書かれています。しかし、それについての解説は本文中にはありません。関連を多少持たせているのが「このわが身知らずの自己に暗い心も「無明の闇」である」です。それでも、「無明の闇=疑情・自力心」という等式はなりたっても、「苦悩の根元=無明の闇=死後どうなるか分からない心=疑情・自力心」は成り立ちません。


高森顕徹会長がどの程度の理解をもって「なぜ生きる」を書いたかは分かりませんが、贔屓目に見ても、「苦悩の根元=無明の闇=死後どうなるか分からない心」と読者に思わせようとして書いているのは明白です。

なぜ生きる発刊以来19年間言い続けたことを今更否定もできないので、「無明の闇を自力で言われているところもある」とか「精密にいうと無明の闇=自力ではない」と路線変更を始めたようです。

ただ、今回久しぶりに登場した高森会長ですが、話の後半はアシスタントが質問をして何とか話を誘導しているような様子だったとのことでした。年齢もさることながら、ここ何ヶ月も会員の前で話をしなかったのも無理の無い状態かと思います。

今回は、「自力」「他力」について説明はするものの、何によって自力を捨てるのか他力に帰するのかの話はありませんでした。
主著に書いた内容を、今になってなんとか辻褄合わせをしようという状態ですから、会員の皆さんは高森会長以外の本や話に触れてみて下さい。