顕正新聞2022年1月1日号を読みました。
年頭所感を読んで思ったことを書きます。
1面は昨年の1月号に続いて京都会館の記事でした。親鸞会にとって京都に会館があるというのは、東西本願寺にならんだかのような感慨があるのでしょう。他の会館とは新聞上での扱いが違います。
「年頭所感」は、毎年1月1日号に高森会長をはじめとして各部門の責任者の文章が掲載されます。以前は、高森顕徹会長も自ら文章を書いてきましたが、近年は別の人が著作から引用して前後に文章を加えて発表をしています。それでも、以前は「高森会長の著作」に手を入れない形での複写でしたが、最近はいろいろと細かいところで修正が入っています。
今年の年頭所感は、主に「歎異抄をひらく」第2部(6)「ただほど高いものはない」といわれる。では『歎異抄』の“ただ”とは?(P172-179)の全文を複写し、一部修正して文末に作文を加えたものです。
教義的なこと以前に、この章のなかで文章が成立していないのが、「ただ念仏して」の説明部分です。
〔原文〕
親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに別の子細なきなり(『歎異抄』第二章)
(意訳)
親鸞は、「ただ念仏して、弥陀に救われなされ」と教える、法然上人の仰せに順い信ずるほかに、何もないのだ。(略)
では「ただ念仏して」とは、どんなことだろうか。
「ただ」とは,“ただ”の“ただ”もいらぬ“ただ”じゃったと、弥陀の無条件の救いに驚き果てた“ただ”である。
明らかに地獄ゆきの悪性を突きつけられても、千円落としたほどにも驚かず、明日の命はないぞと切り込まれても、そんな者を救う弥陀だと聞かされても、百円貰ったほどにも喜ばない。
これではならぬと真剣に聞こうとすればするほど、キョロン、トロン、ボーとした心がドタ牛のように腹底に寝そべって、ウンともスンとも聞く気がない。「屍の心」と聖人がいわれたのはこのことか。
金輪際、仏法を聞く奴ではありませんと愚痴れば、そんなお前は万々承知の上だ“そのまま任せよ”の弥陀の仰せにびっくり仰天。
どうせ地獄より行き場のないオレだ。どうにでもしてくだされ、と弥陀にぶちまかせた“ただ”なのである。
どんな難聴の者にも聞こえる、不可称・不可説・不可思議の声なき“ただ”であり、弥陀と私が同時に生きた「他力信心」をあらわす“ただ”である。その後の「念仏して」は、弥陀より賜った「感謝の念仏」である。
(後略)
(顕正新聞2022年(令和4年)1月1日号年頭所感)
最初の(原文)に対する(意訳)の箇所については読んで違和感を感じません。
ただ、その後の解説が(意訳)と関係のない文章が続き、解説になっていないところが気になりました。
(意訳)では、「ただ念仏して、弥陀に救われなされ」と教える、法然上人の仰せとなっています。
つまり、「 」部分は、法然上人の仰ったこととして書かれています。
法然上人の書かれた『選択本願念仏集』の中で、親鸞聖人が『教行信証』に引文されている箇所は、二ヶ所しかありません。
その一つが
『選択本願念仏集』(選択集 一一八三)[源空集]にいはく、
「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」と。
(浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P185 顕浄土真実行文類 - WikiArc)
(現代文)
「南無阿弥陀仏 浄土往生の正しい行は、この念仏にほかならない」
であり、もう一つが
(略)正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」と。(同上)
(現代文)
正定業とは、すなわち仏の名号を称えることである。称名するものは必ず往生を得る。阿弥陀仏の本願によるからである。
です。
歎異抄の「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」は、この法然上人の教えをそのまま書かれたものでありますから、「ただ念仏」は「雑行も、助業も必要ない、阿弥陀仏が選び取られたのはただ念仏一つ」の意味で読むのが普通です。実際、(意訳)も、その意味で書いてあります。
国語辞書で引くと、以下の意味が「ただ」です。
ただ(唯・只)
それ一つを取り立てて限定する。それよりほかのことなく。もっぱら。いちずに。ひたすら。ただに。(精選版日本国語大辞典)
「ただ」がなぜか「他力信心」として解説がされる。
それが、解説の文章になるとまったく別の説明から始まります。
では「ただ念仏して」とは、どんなことだろうか。
「ただ」とは,“ただ”の“ただ”もいらぬ“ただ”じゃったと、弥陀の無条件の救いに驚き果てた“ただ”である。(顕正新聞2022年(令和4年)1月1日号年頭所感)
「ただ念仏」の言葉が「ただ」と「念仏」に分解されているうえに、副詞として使われている「ただ」が、「無条件の救いに驚き果てた」こととなっています。
さらに
どうせ地獄より行き場のないオレだ。どうにでもしてくだされ、と弥陀にぶちまかせた“ただ”なのである。(同)
こうなると「ただ」とは一体なんなのかは、読んでもよく分かりません。
最後には、こうまとめられています。
どんな難聴の者にも聞こえる、不可称・不可説・不可思議の声なき“ただ”であり、弥陀と私が同時に生きた「他力信心」をあらわす“ただ”である。(同)
ここでやっと「他力信心」をあらわすのが「ただ」であると書いてあります。
最初の(意訳)で、「ただ念仏して、弥陀に救われなされ」と書いていた箇所は「ただ=他力信心」という解説になっています。
そして
その後の「念仏して」は、弥陀より賜った「感謝の念仏」である。
とあるので、まとめると、
「ただ念仏して、弥陀に救われなされ」=「他力信心・感謝の念仏して、弥陀に救われなされ」となります。
そうなると不明な点が2つ出てきます。
- 「ただ=他力信心」となると、他力信心は何によって起こされるものなのかが分からない。
- 「他力信心・感謝の念仏して弥陀に救われなされ」では、お礼の念仏して救われる?
1「ただ=他力信心」となると、他力信心は何によって起こされるものなのかが分からない。
ここは、親鸞会会員の多くが、分かったようでよく分からないところです。そのため、この「歎異抄をひらく」の文章を読んでも違和感を感じない会員も多くあります。
以前も、私が書いたような疑問を投げ掛ける人がいると「文法は関係ない」とか「高森顕徹先生でなければここは読めない所なのだ」という理由でそれ以上考えなくなってしまいます。
しかし、繰り返しになりますが(意訳)に書いてある「ただ念仏して、弥陀に救われなされ」の「ただ」が、仮に「他力信心」をあらわすとしても、その「他力信心」は一体何によって起こされるものかについては、全く書かれていません。
先に紹介した文章では
そんなお前は万々承知の上だ“そのまま任せよ”の弥陀の仰せにびっくり仰天。
どうせ地獄より行き場のないオレだ。どうにでもしてくだされ、と弥陀にぶちまかせた“ただ”なのである。
とあります。
こういう言い方は、高森顕徹会長が以前からしていました。しかし、「“そのまま任せよ”の弥陀の仰せ」とは一体どこで、どう聞こえるのでしょうか?
これではならぬと真剣に聞こうとすればするほど、キョロン、トロン、ボーとした心がドタ牛のように腹底に寝そべって、ウンともスンとも聞く気がない。「屍の心」と聖人がいわれたのはこのことか。
と自分の心に驚いて、
金輪際、仏法を聞く奴ではありませんと愚痴れば、そんなお前は万々承知の上だ“そのまま任せよ”の弥陀の仰せにびっくり仰天。
どうせ地獄より行き場のないオレだ。どうにでもしてくだされ、と弥陀にぶちまかせた“ただ”なのである。
ある日「そのまま任せよ」の弥陀の仰せに「びっくり仰天」して「どうにでもしてくだされ」となるのが、「ただ=他力信心」と書いてあります。
多くの親鸞会会員は、そのように思っていると思います。私も以前はそのように思っていました。
しかし、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」が、どうしてこんな意味になるのかと言えば全く理解ができません。仮に「こういう心の道程をたどるのだ」と言いたいのならば、「歎異抄2条」の解説文のところには全くあてはまるところはありません。なぜなら、法然上人はそのように「自分の心と向き合い、「屍の心」を知らされ、「そのまま任せよ」の弥陀の仰せを聞いてまかせて、感謝の念仏すること」を「ただ念仏して」とは言われていないからです。
法然上人の「ただ念仏して」の「ただ念仏」は、「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」 のことであり、「正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。」の意味です。
したがって「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と言われるのも「称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」ですから、文字通り「ただ念仏して弥陀に救われなされ」の(意訳)に付け加えることは何もありません。
他力信心は、ある日「そのまま任せよ」の弥陀の仰せに「びっくり仰天」して「どうにでもしてくだされ」となることで起こるのではありません。「ただ念仏」に信心と念仏はともにあります。私の口から称えられているところの南無阿弥陀仏が、そのまま正定業ですから、その南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いのが信心といいます。ある日「びっくり仰天」する仰せが聞こえるのではありません。この南無阿弥陀仏が仰せです。他には弥陀の仰せといっても別にありません。
2「他力信心・感謝の念仏して弥陀に救われなされ」では、お礼の念仏して救われる?
これについては、「ただ念仏」を「ただ=他力信心」「念仏=感謝の念仏」と無理やり解説をしたために、会員が読んでも解説としておかしいものとなっています。
「ただ念仏して弥陀に助けられ」とあるので、「ただ=他力信心」としたとしても、「感謝の念仏して弥陀に助けられ」では意味が通りません。
別の言い方をすると、「弥陀に助けられ」たことを信心ともいうので、この歎異抄の解説文章で当てはめると、「他力信心・感謝の念仏して信心を獲る」というよく分からない文章となります。
まとめ
年頭所感の最後はこう書かれています。
親鸞聖人の御教えを鮮明にすべく唯円が泣き泣き書き遺した『歎異抄』だったが、皮肉にも後世、勝手な解釈があふれ、教義が乱れる原因となった。
今年は『歎異抄』の映画や原作の大ヒットに加え、入門書が濁世を照らし、空前の『歎異抄』ブームとなって、真実の砂塵を巻き上げ列島を縦断するであろう。決死の聞法に身を投じ、自他共に曠劫多生の目的を開顕する。報恩の年としたいものである。(顕正新聞2022年(令和4年)1月1日号年頭所感)
これだけ勝手な解釈をして「皮肉にも後世、勝手な解釈があふれ、教義が乱れる原因となった」と書いていますが、書いている当人は本気です。
親鸞会教義は、どこまで突き詰めても、「何によって信心を獲られるか」については曖昧なまま「決死の聞法に身を投じる」ことで、ある日「びっくり仰天」する仰せが聞こえるというものの他には何もありません。
これまでと同じ事を繰り返してまた一年がすぎ、一生すぎてよいのでしょうか。そうなるのは、会員の「決死の聞法」の「覚悟や努力」が足りないからではありません。
教えが間違っていると言うより、肝心な事を教えていないからです。
今年は、「歎異抄をひらく」以外の「歎異抄解説書」を手に取って読んでみてください。何かひっかかるところがあれば、その疑問にフタをするのではなく自分の中でよくよく考えてみてください。
南無阿弥陀仏は必ず私を救うと常に常に私の口から出てくださっています。