親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会「850の集い」での「仏法讃嘆」は添谷講師のYoutube対談の内容がよいと思う理由

宗教法人浄土真宗親鸞会(本部・富山県射水市)の機関誌・顕真2024年(令和6年)3月号を読みました。
以下思った事を書きます。

目次

親鸞会2024年の降誕会について

顕真2024年3月号目次

目次にも大きく書かれていますが、2024年5月23日(木)から29日(水)の7日間親鸞聖人ご生誕850年行事を親鸞会は行う予定です。名称は「850の集い」です。



「850の集い」のメインは「仏法讃嘆」

7日間の間、法話自体は25日(土」26日(日)の2日間ですから、残りの5日間は「仏法讃嘆」がメインの行事となるようです。

「ご生誕850年」は、1週間、富山に腰を据えて滞在し、得心のいくまで仏法讃嘆しましょう(顕真2024年3月号P3)

蓮如上人の「信心の沙汰」と親鸞会の「仏法讃嘆」の違い

親鸞会では信心の沙汰のことを「仏法讃嘆」と敢えて言い換えています。元々信心の沙汰とは、蓮如上人が御文章に言われているものです。

せめて念仏修行の人数ばかり道場に集まりて、わが信心は、ひとの信心は、いかがあるらんといふ信心沙汰をすべき用の会合なるを、ちかごろはその信心といふことはかつて是非の沙汰におよばざるあひだ、言語道断あさましき次第なり。所詮自今以後はかたく会合の座中において信心の沙汰をすべきものなり。(御文章 (一帖) - WikiArc十二通・年来超勝寺)

ここでは「わが信心は、ひとの信心は、いかがあるらん」が信心の沙汰であると言われています。


また、別の箇所ではこのように言われています。

いかにも不信の面々は、一段の不審をもたてて、信心の有無を沙汰すべきところに、なにの所詮もなく退散せしむる条、しかるべからずおぼえはんべり。よくよく思案をめぐらすべきことなり。所詮自今以後においては、不信の面々はあひたがひに信心の讃嘆あるべきこと肝要なり。(御文章 (四帖) - WikiArc十二通・毎月両度)

「不信の面々は、一段の不審をもたてて、信心の有無を沙汰すべき」ものが信心の沙汰であるとも言われています。


これに対して、親鸞会では信心の沙汰(仏法讃嘆)をこのように定義しています。

どのような仏法讃嘆がいいのか。映画『なぜ生きる』の仏法讃嘆の場面に、そのヒントが描かれています。(略)
夜、吉崎御坊・本光房の多屋
語り「夜になると、本光房の宿舎には了顕を中心に十数人の老若男女が集まり、その日、蓮如上人からお聞きした事を復習し、それぞれの理解を確かめ合っていた」(顕真2024年3月号P4)

ここに「復習」の文字があります。実際に親鸞会に在籍し、仏法讃嘆に参加した事のある人なら分かると思います。親鸞会の「仏法讃嘆」は「信心の有無の沙汰」ではなく「高森会長の法話の復習会」なのです。

なぜ「復習会」は信心の沙汰にならないのか

法話で聞いた内容そのものについて話をすること自体は悪い事ではありません。ただ、高森会長の話の中身に殆ど「信心」とか「南無阿弥陀仏のいわれ」についての話がないために、その「復習会」をしても「信心の沙汰」にはなりません。
特にここ数年の高森会長不在の状態で会員が視聴してきた過去の高森会長のビデオ法話や座談会の内容は「因果の道理」や「六度万行」についてのものも多くありました。「因果の道理」のビデオ法話を視聴したあとに、その「復習会」をしたところで「どこまで因果の道理を理解したか」の沙汰にはなっても「信心の有無の沙汰」にはなりません。


また、あくまで「復習会」であるために、「高森会長の話のここはおかしいのではないか」という内容について話をするのは、入会前の人や入会したばかりの人を除けばご法度の空気があるのが親鸞会です。

自分の聞き誤りを隠そうとするのではなく、正直に述べて、間違っていたら教えて頂く。一つでも自分の誤解が正される事を喜びとしましょう。(顕真2024年3月号P14)

と顕真にはありますが、実態はそのようにはなっていません。

「信心の沙汰」の手本を示した添谷講師と桜嵐坊さんのYoutube対談

親鸞会では信心の沙汰といっても「聞いた話の復習会」しかありません。むしろ、こういう復習会が信心の沙汰だと思っている会員も多いのではないかと思います。

しかし、2024年3月29日に公開されたYoutube動画で添谷亮介講師が、先の顕真にある「自分の聞き誤りを隠そうとするのではなく、正直に述べて」を身をもって示していたので紹介をします。

youtu.be
【第2談】(ゲスト)添谷亮介さん&桜嵐坊「ハッキリ対談」

この対談は、現在親鸞会と桜嵐坊さんとの間でYoutube動画上で行われている議論についての対談です。どのようなことが議論されているかは当ブログにもまとめ記事を掲載していますので、そちらを参照してください。
shinrankaidakkai.hatenablog.com


救われた瞬間に大きな変化があるのか、ないのか問題

現在、信心決定の自覚はあるという上で、救われた瞬間に大きな変化が有るか無いかという問題について議論をしています。

菊谷さんの「取り説」⑦「何が知らされるのか?」

以下のリンクから参照
01:02〜

そのなかで、添谷講師からは、尊号真像銘文の以下のご文の解説についての質問がありました。

「摂取心光常照護」といふは、信心をえたる人をば、無碍光仏の心光つねに照らし護りたまふゆゑに、無明の闇はれ、生死のながき夜すでにになりぬとしるべしとなり。「已能雖破無明闇」といふは、このこころなり、信心をうればになるがごとしとしるべし。(尊号真像銘文 - WikiArc浄土真宗聖典註釈版P644)

菊谷さんの「取り説」「いつのまにか救われていた」が浄土真宗なのか?②16:40〜を参照

「無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬべし」の「暁」は明るいのか暗いのか

07:03〜

菊谷さんの「取り説」「いつのまにか救われていた」が浄土真宗なのか?②

添谷講師「(私のYoutubeチャンネルのリスナーからの)質問だったんですけれども、桜嵐坊さんの動画の中で親鸞聖人が暁と仰っておられるのはこれは、私は試験に合格した暁にはみたいな意味の言葉だと、私はずっとそういう認識でいたんですけれども、実は古典の世界では暁という言葉は鎌倉時代の意味としては、夜半から暁になる。時間で言えば午前3時から5時くらい。午前3時と言えばまだ真っ暗と言う事なので、これを聞いた人から本願寺の坊様でも救われてもまだ真っ暗なものなんでしょうかという、素朴な疑問といいますか、そういうことを聞かれたものですから。これは私が答えると言うよりも桜嵐坊さんにご確認させていただくしかないなと思って」

この後、煩悩がある以上光が見えないので真っ暗と表現。ただ、真っ暗といっても真夜中ではない、わずかに明るくなってもう夜ではない、夜が明けて朝に向かっている状態を暁と言われたという説明が続きます。


それに続いての添谷講師の発言。

13:04
添谷講師「それはこの正信偈のこれ(煩悩障眼言不見 大悲無倦常照我)を言われていると思うんです。しかし、この煩悩は一杯、全く信前も信後も変わらないけれども、大悲倦きことなくして常に我を照らしたもうと明るく晴れた姿を仰っておられますよね。
親鸞聖人も「大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば」と仰っておられますので、親鸞聖人は明るく」


桜嵐坊さん「いくら信心決定した、正定聚の身になったといってもですね。やはり煩悩は起こってくるし、災難に遭うと言う事もたくさんあるわけですよね。事実親鸞聖人も晩年には息子の善鸞様を義絶しなければいけなかったですしね。息子を義絶する時にですね。ニコニコしながら義絶したわけではないんですよね。火事にあわれたらそれなりのね、つらさがあるんですね。」


添谷講師親鸞聖人はやはり、そこまで明るくなく。親鸞聖人は暗い、あけぼの状態(※暁状態のいい間違い)でおられたと。こういうことだと。でもそれでよろしいんでしょうか。親鸞聖人もほぼ真っ暗だったということが、本願寺派の説くところの、色々なお説があるとはお聞きした事がありましたが、親鸞聖人も」


桜嵐坊さん「信心を頂いてもキラリーンという心持ちでずっといられるわけではないんですね。そして正定聚といいながら煩悩にまみれた生活をしている。それを悲歎する気持ちがあったんですね。」


添谷講師「凡夫の智慧自力では往生だとか弥陀の願力がわからないと言う事であって。名号六字のお力によって私たちが、阿弥陀仏のお力、名号六字の功徳を頂いて、その功徳を信知すると光明の広海に浮かぶと、これが先ほどの親鸞聖人の大悲の願船に乗じてという行巻の有名なお言葉であり。南無六字の功徳を仰ったものではありませんか。この六字の功徳を頂いたならば、つまり大悲の願船に乗せられたならば、光明の公開に浮かんだぞと」


桜嵐坊さん「晴れやかな気持ち、明るい気持ちと言うわけではなくてですね。やはり、必ず往生させて頂くけれども私の心の中を見てみれば、暁程度の明るさしかなかったという事ですね。」


添谷講師「「煩悩によって見えないけれども、常に弥陀の光明が我を照らし、光明の広海に浮かんだと聖人は仰っておられますし、私もそのように領解させていただいています。」

ここで添谷講師は、無明の闇が晴れると言う事と、煩悩があるために阿弥陀仏阿弥陀仏の光明を見る事ができないことの関係が分からないため、「名号六字の功徳を頂いて、その功徳を信知する」と発言しています。


闇が晴れたらハッキリ明るくなると高森会長から長年聞いてきたために、お聖教に書かれている事も文字通りに受け取れない事という「自分の聞き誤りを隠そうとするのではなく、正直に述べて」います。


それに対して親鸞会側の筬島正夫さんは動画の中で、救われた瞬間に明るくなるのだから救われたその瞬間が分からない筈はないと主張します。

画面右側の図は、筬島さん作成のもので、縦の線で色分けして信後は随分と「ハッキリ明るく」なっています。横の線を歩いてきた棒人間はガッツポーズをとり、上からくす玉が割れたのか紙吹雪が舞い降りています。



二河白道の譬えについて、四五寸の白道が無碍の大道に変わるのか変わらないのか問題

38:56
添谷講師「桜嵐坊さんは無碍の大道を否定しておられましたが、親鸞聖人は白道というのは無上の大道のことであると、もちろん信後の白道についてのご解釈ですけれどもね」


桜嵐坊さん「どこに書いてあります?」


添谷講師「……信前の白道については四五寸であり。これは二河白道親鸞聖人のご解説ですね。愚禿鈔ですね。(略)愚禿鈔下の法蔵館では564ページ
白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。これは信前の白道ですよね。明らかに。」


桜嵐坊さん「白路なんじゃないですか。それは。白路ですよね。」


添谷講師「えー。白のご解説ですね。はい、これすなはち自力小善の路なり。」


桜嵐坊さん「白路ですよね」


添谷講師「うん。白路。はいはい」


桜嵐坊さん「白路というのは自力聖道門の道ですよね。ここで愚禿鈔で説明されているこの部分は白路についてでないですか。」


添谷講師「これね、はいはい。信前の……これは白道……」


桜嵐坊さん「白路じゃないですか」


添谷講師「……」


桜嵐坊さん白道ですよね。もう最初から渡る前から白道な訳ですよ。そして渡っているところも白道ですし。渡る前も渡った後も何の変化もないわけですね。渡る前から最初も後も同じ四五寸の白道な訳です。どこか大きな変化はありましたか。」


添谷講師「うん」


桜嵐坊さん「違いませんよね」
以下、桜嵐坊さんの解説が続く。

ここでも、親鸞会で高森会長は「白道を進んでいった途中で三定死の状態になり、そこで西の岸からの喚び声を聞く、その時わずか四五寸の白道が無碍の大道に転じ変わる」という話をしてきました。私もそのように聞いてきました。
しかし、「四五寸の白道」は原文*1を読んでみると分かりますが、大きさが変わったり性質が変わるようには書かれていません。

添谷講師は、愚禿鈔の「これすなはち自力小善の路なり」とある所だけを見て、「信前は路で、信後は道に変わるのだ」と勝手に解釈している事も「自分の聞き誤りを隠そうとするのではなく、正直に述べて」います。

「850の集い」は上記のテーマで復習会(仏法讃嘆)ではなく信心の沙汰を

この紹介した動画で添谷講師は「自分の聞き誤りを隠そうとするのではなく、正直に述べて」います。顕真に書かれている通りの仏法讃嘆を身をもって実践しているので、会員の方は是非対談動画を最初からみて頂きたいと思います。
「850の集い」の仏法讃嘆も、是非この対談で取り上げられているテーマで信心の沙汰をしたらよいのではないかと思います。

高森会長のビデオ法話の復習会では、そもそもの話として信心についての話がないので信心の沙汰にはなり難いのが現状です。

最後に、ビデオの高森会長にたよるのはそろそろ終わりにしましょう

7日間の「850の集い」はメインが「仏法讃嘆」となっていますが、顕真の特集記事の最後はこう書かれています。

「850の集い」に1週間参加する人は、会館の落慶座談会の高森先生のご教導を聞かせて頂くご縁も予定されています。
聖人のご生誕を寿ぎ、聖人一流の御勧化を聞き、語り合い、信心を獲得する最高の勝縁といたしましょう。(終)(顕真2024年3月号P14)

さすがに7日間の日程で「仏法讃嘆をしましょう」では会員が参加しないと思ったのか、これまで各地の会館落慶の際に高森会長が行った落慶座談会のビデオを見る事ができることを実質の目玉にしています。日ごろ中々見る事ができない過去の映像にたよるしかない親鸞会の現状をよく表しています。


しかし、現状もそうですが、今後も高森会長が再び会員の前で法話をする事は事実上ないでしょう。話ができる人がいない事は私もよく知っていますが、もういい加減に高森会長のビデオにたよるのは止めましょう。


あまり信心の話がない最近の高森会長のビデオを聴聞して、復習会をすることで本気で「信心を獲得する最高の勝縁といたしましょう」と言っているのでしょうか。顕真を書いた人はそう思っているのかも知れませんが、少なくとも多くの会員はそう思っていないでしょう。


過去の高森会長のビデオを続けるにしても「信心の有無」の沙汰をせめてするような「850の集い」にしたほうがよいと思います。この記事を読まれて、親鸞会の仏法讃嘆に疑問を持たれた会員は、会以外の場所を探す事をお勧めします。