親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「講師の二千畳法話始まる」(顕正新聞2019年8月1日号)から見た親鸞会の変化

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顕正新聞2019年8月1日号一面
親鸞会機関紙顕正新聞2019年8月1日号によると、7月13日より親鸞会館(富山県射水市)の二千畳(大講堂)で講師による法話が始まりました。
高森会長の行事日とその前日以外のかなりの日に法話がされるようになっています。日程表も顕正新聞に記載があり、それぞれ午前と午後一人ずつが話をする日程になっていました。


高森顕徹会長以外の人間が二千畳で話をするというのは以前は考えられないことでした。
そのことは、前回の記事にも書きました。
shinrankaidakkai.hatenablog.com



なぜ考えられないことだったのかを簡単にいうと、「信心決定していない者は二千畳で法話をしてはならない」という不文律があったからです。もちろん不文律ですから、明確に講師部規定にそのようなことがあるわけではありません。しかし、私が在籍したころも含めて親鸞会における「人に法を説く者」としての基本スタンスは「自信教人信だから、自ら信心決定していないものは人に法を説き切ることは出来ない」というものでした。


それが徹底されていた譬えとして、私が親鸞会に入った当初から聞いた話があります。「知識は針の如し、同行は糸の如し。針が進む通りに糸は進むし、針が糸を飛び越えることはない。(親鸞会でよく使われる縦の線と横の線を指して)この縦の線(信心決定)までいった人の話を聞かないと、聞いている人も信心決定の身になることはない。だから、高森顕徹先生の話を直接聞かなければならない」というものです。


言っていることとして、「高森顕徹会長しか信心決定した布教使はいない」という前提で話をするので、その点は間違いですが、話をするものはまず信心決定せよというのは蓮如上人も言われていることです。

(14)
一 教化するひと、まづ信心をよく決定して、そのうへにて聖教をよみかたらば、きくひとも信をとるべし。(御一代記聞書 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1236)
(93)
一 信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われは物をもたずして人に物をとらすべきといふの心なり。人、承引あるべからずと、前住上人(蓮如)申さると順誓に仰せられ候ひき。「自信教人信」(礼讃 六七六)と候ふ時は、まづわが信心決定して、人にも教へて仏恩になるとのことに候ふ。自身の安心決定して教ふるは、すなはち「大悲伝普化」(同)の道理なるよし、おなじく仰せられ候ふ。(御一代記聞書 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1261)
(現代文)
実如上人が順誓に、「<自分が信心を得てもいないのに、人に信心を得なさいと勧めるのは、自分は何もものを持たないでいて、人にものを与えようとするようなものである。これでは人が承知するはずがないと,蓮如上人はお示しになった」と仰せになりました。
そして、「『往生礼讃』に<自信教人信>とあるのだから、まず自分自身の信心を決定して、その上で他の人々に信心を勧めるのである。
これが仏恩報謝になるのである。自分自身の信心を決定してから人に教えて信心を勧めるのは、すなわち仏の大悲を人々にひろく伝える、<大悲伝普化>ということなのである」と続けて仰せになりました。

https://bit.ly/2ALmi1l


そのため、親鸞会の講師部員の各地での法話というのは、「みなさんこの場で信心決定して下さい。阿弥陀仏に救われて下さい。」というよりは、「私は信心決定の身になっていませんので、きちんと話は出来ませんが、高森顕徹先生は説き切ることが出来る先生なので、高森顕徹先生の話を聞いて下さい」という内容に終始していました。


各地の会員も、それは織り込み済みで話を聞いているので、多くの会員から「どうしたら救われるのでしょうか」といった突っ込んだ話は殆ど出てきません。なぜなら、会員も「どうしたら救われるのかというような話は高森顕徹先生より聞くしかない」と理解をしているからです。「地元で親鸞会の講師から仏教の話を聞けることは嬉しい。だけど、真仮の水際(縦の線)を説き切ることが出来るのは高森顕徹会長だけ」というのが共通認識でした。話をする側も聞く側もそういうことで日々活動をして、日曜日にある高森顕徹会長の法話を聞きに行くというのが、数十年続いてきたのが親鸞会です。


それでも、チラシなどを見て初めて来られた方の中には「難度海を度する大船があるのは分かったけれども、どうしたらその船に乗れるんですか」「どうしたら信心決定できるのですか」と聞かれることがあります。しかし、そこで「じゃあ話をしましょう」とはならずに、「続けて聞いて下さい」「高森顕徹先生の話を聞きに行って下さい」というのが実態でした。それはある意味では、「自信教人信からいえば、自分には人に伝えることは出来ません」と言っているので正直ではありました。実際、私が親鸞会にいたころにそういった突っ込んだ質問をされると、回答が出来ず心苦しい思いをしていました。

禁止説法と10分間説法

かつて、親鸞会講師は各地で法話をする際に、この演題の話はしてはならない「禁止説法」がありました。一例をあげると「本願成就文」「二種深信」などです。
理由は、信心の詳しいことは、信心決定していないものが説けばかならず誤るからというのものです。そのため、信心決定していない講師部員は(つまり全員)説いてはならないとされていました。それでも、それ以外はどんな演題について話をするのかは自由でした。


それが、変わったのは2002年(平成14年)の支部長制度が始まってしばらく後のことでした。この時、講師部員はそれまでの本部制度を改めて、支部長は独立した布教使となりどこへ行ってどんな話をしてもいいと変わりました。しかし、その後しばらくして「講師の話の内容について会員から苦情が来ている」との理由で、講師部員は高森顕徹会長が監修した「10分間説法の原稿の話」と「高森顕徹会長のビデオ法話」のみしか出来ない時期がしばらく続きました。


それくらい講師部員の話については厳しく統制をとっていたのがかつての親鸞会でした。しかし、その後、2007年(平成19年)前後から「それでは新規入会者は増えない」との理由で「10分間説法ビデオ法話のみ」というのはなし崩し的になくなっていきました。

変わり目

その変わり目があったのは、2014年(平成26年)の講師部講義からです。
詳しいことは以下に書きました。
shinrankaidakkai.hatenablog.com
shinrankaidakkai.hatenablog.com

短くまとめると、「知っただけでは何にもならんという大邪義」というタイトルの記事ですが、「信心獲得していない者が法を説けるのかという批判にどう答えるか」というものです。

それに対しての高森顕徹会長の答えは「教えの通りに説けばよいのだ。信心の有無は関係ない」というものです。ここで方針が大きく変わり、今回の講師による二千畳法話になりました。


高森顕徹会長が、蓮如上人以来の大善知識とは言えない理由

親鸞会では、長らく高森顕徹会長を蓮如上人以来の大善知識といって会員に紹介してきました。教えの内容については、すでにいろいろと指摘を来ましたので、今回は別の面で高森顕徹会長が蓮如上人と違うことを書きます。
それは、蓮如上人は多くの人に布教をされましたが、同時に当時の「坊主」「大坊主」と言われる今でいう僧侶、親鸞会でいえば講師に対しての勧化も厳しいものがありました。それは先にあげたように「信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われは物をもたずして人に物をとらすべきといふの心なり」というものです。振り返ると、講師部のみが参加という時期の講師部講義でも、高森顕徹会長に信仰相談をする講師は一人もいませんでしたし、高森顕徹会長から「君の信心は大丈夫か。後生は大丈夫か」と聞かれたこともありません。


「信心決定した人でなければ法を説けない」としながらも、講師部員にもそんな話をしないのが高森顕徹会長でした。その後、「信心決定したかどうかは問題ではない、教えの通りに伝えるかどうかが大事なのだ」と自説を変えました。


我が身の後生を忘れる立場に立たされる講師部員

その結果として、二千畳で講師部員が会員を前に話をしています。どんな気持ちで話をしているのかを考えると「自分は教えの通りに話をしているのだから、聞いた人は信心決定する人もあるだろう」ということだと思います。しかし、それは自分以外の人の話を聞くことを勧めるときにいう言葉であって、自分が法を説く時にいう言葉ではありません。
本当に我が身の後生を考えたなら、同じことが言えるでしょうか?午前に話をした講師が、午後の別の講師の話を聞く時に「この御縁で信を獲て帰るぞ」という気持ちで聞いているのでしょうか?自分がそう思えないならば、参詣者のの多くはそう思っているということです。


かつて私は先輩講師から「法話に立つのは辛いことだ。なぜなら、信心決定せよと人に勧めながら、自分は信心決定していないからだ」と聞きました。私もそう思って親鸞会にいたころの多くの時間、法話をしていました。そして、いつか自分の後生を忘れて(あるいはどこかに置いて)法話をするようになっていきます。それの一つの到着点が講師による二千畳法話です。

二千畳で話をするようになった講師は一体どうやって我が身の後生の解決をするのでしょうか?そのうち高森顕徹会長が話をすることがなくなるのは時間の問題です。

信心決定がリアルではなくなる親鸞会

このような状況になると、話をする人も聞く人も、ただ今救われるという阿弥陀仏の救いを、どこか遠くに置きながら法話をするという状況になっています。
それでは、誰もただ今救われることを信じないまま、ただ行事だけ続いているという状態です。

ただ今救われるのが浄土真宗です。現状の自分自身に不審のある方はお尋ね下さい。