親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会会員は全員読むべき本・『教行信証』からひもとく浄土真宗の教え(藤澤信照・法藏館)

『教行信証』からひもとく浄土真宗の教え
2024年06月21日発売された・『教行信証』からひもとく浄土真宗の教え(藤澤信照(著)・法藏館)を読みました。

親鸞会会員は全員読むべき内容なので紹介をします。ただし初版が売り切れて、現在重版中です。
『教行信証』からひもとく浄土真宗の教え - 法藏館 おすすめ仏教書専門出版と書店(東本願寺前)-仏教の風410年
こちらで予約をされると8月上旬に発送されるそうです。

目次

本の目次より

著者は、現在、浄光寺住職、行信教校講師をされている藤澤信照先生です。

(amazonより)
門外不出のテキスト、待望の書籍化!
梯實圓和上(浄土真宗本願寺派勧学)の名講義録「真宗要論」をもとに、著者が丹念に咀嚼・推敲を重ねた真宗教学のダイジェスト版。これを読めば、浄土真宗の教えがわかる。

【目次】
はじめに
第一章 「浄土真宗」という宗名があらわす意義
第二章 親鸞聖人の宗教観
第三章 親鸞聖人の仏教観(二双四重判)
第四章 三願真仮と三願転入
第五章 六三法門
第六章 現生正定聚
第七章 親鸞聖人の仏身仏土説
第八章 四法の大意
第九章 真実教
第十章 真実行
第十一章 真実信
第十二章 真実証と還相回向
第十三章 浄土真宗の倫理性
おわりに

「はじめに」だけでも読んでほしい

「はじめに」でこう書かれている箇所があります。

教行信証』に説かれた教えは、「廃悪修善」という従来の仏教の考え方をくつがえし、阿弥陀如来の本願をはからいなく受け入れるか(信)、それとも自力のはからいをもって拒絶するか(疑)によって、迷い続けるかさとりに至るかが決まる、いわゆる「信疑決判」という全く新しい仏教のあり方を示した教えでした。それは善悪・賢愚を選ばず、在家・出家、老若・男女を問わず、あらゆる人々をもらさず救う教えであり、(はじめに ⅰ)

教行信証とは、「廃悪修善」とは違う全く新しい仏教のあり方を示されたものです。従来の仏教の考え方を持ち込むと、途端に分からなくなる教えが浄土真宗とも言えます。ここが、最初であり、親鸞会会員にとっては一番誤解をしているところと言えます。

なぜ親鸞会会員は「因果の道理(廃悪修善)」と浄土真宗を混ぜるのか

親鸞会に入会した人で「因果の道理に感動した」という人はかなり多いです。反対にこの「因果の道理」があるから親鸞会を辞められないという人も多くいます。

親鸞会では、因果の道理は「仏教の根幹」と教えられています。そして、「因果の道理(廃悪修善)」の法話も何度も行われています。高森顕徹会長が、毎週全国で法話をしていた頃でも、「因果の道理」の演題は年間2回から3回は行われていました。各地で行われる講師の法話に関しては、因果の道理の話をする頻度はもっと多いです。


親鸞会会員が聞いている因果の道理について

親鸞会会員でない方にも、分かるように親鸞会ではどのように因果の道理について話をしているかを簡単に説明します。

このような板書をして、こんな話をします。

因果の道理は仏教の根幹です。根幹とは、根っこであり幹であると言うことです。
仏教をこのような木に譬えると、根っこがなければ木は枯れてしまいますし、幹がなければ木は倒れてしまいます。
そのように、因果の道理が分からなかったら仏教全体が分からなくなる。それだけ大事な教えだと言うことです。

全く仏教を知らない状態でこの話を聞く人が親鸞会入会者には多いです。私も、大学入学後に親鸞会で聞いた話にこの因果の道理がありました。個人的には、この世のすべてが因果関係によって成り立っている、「たまたま」というのはあり得ないという話に感動したのを覚えています。

いわば、最初にこの「因果の道理(廃悪修善)」というOSをインストールされているのが親鸞会会員です。


親鸞会会員の仏教観

このように「因果の道理」がOSレベルで頭に入っている親鸞会会員の仏教観は、必然的にこのようになります。

「因果の道理(廃悪修善)」を根幹として、その上に育った大きな木が浄土真宗であるというものです。

「蒔かぬタネは生えぬ 刈り取らねばならない一切のものは自分の蒔いたものばかり」と会が発刊している「一日一訓カレンダー」にもこのような言葉があり、熱心な会員はこれを日常的に目にしています。

そのため、仏教=因果の道理、仏教=浄土真宗と考えるので、浄土真宗=因果の道理(廃悪修善)と考えてしまいます。

その結果、阿弥陀仏の救いに対しても「蒔かぬタネは生えぬのだから、よい種まきをしましょう」と、お布施や勧誘活動を推進します。

私自身は、会の活動費として、または会館を建てるために必要経費を会員にお願いすること自体は善し悪しの問題ではないと思っています。問題は、「そうしないと助からない」「早く救われるには廃悪修善が大事」と会員に思わせているばかりか、講師部全体もそう思っていることです。


「まえがき」に書かれている仏教観

私が救われるかどうかについて、「廃悪修善」が関係あるというのは、上記の図に書いた聖道門です。

浄土真宗は、私が救われるかどうかに、「廃悪修善」は関係ありません。

教行信証』に説かれた教えは、「廃悪修善」という従来の仏教の考え方をくつがえし、阿弥陀如来の本願をはからいなく受け入れるか(信)、それとも自力のはからいをもって拒絶するか(疑)によって、迷い続けるかさとりに至るかが決まる、いわゆる「信疑決判」という全く新しい仏教のあり方を示した教えでした。(はじめに ⅰ)

と書かれているのはそのことです。

親鸞会でも「信疑決判」の話自体はあるものの、「阿弥陀如来の本願をはからいなく受け入れる」には、「廃悪修善」が必要だと教えています。それが、親鸞会でいう三願転入とか、宿善の話です。聖道仏教の考え方です。


「信疑決判」だから、あらゆる人を救う阿弥陀仏の本願

救われるかどうかに、私の「廃悪修善」は一切無関係だというのが、浄土真宗の教えです。
これは、廃悪修善が根幹となっている聖道門の考え方とは異なるものです。そのため、法然聖人の時代に、浄土宗に対して解脱坊貞慶(解脱上人)が朝廷に出した興福寺奏状には「万善を妨ぐる失」があります。諸善・諸行は全て釈尊の正法であるのにも関わらず、当時の専修念仏者が、それを非難しそんなものでは助からないというのは間違いだと言うものです。
(参照)
興福寺奏状 - 新纂浄土宗大辞典


廃悪修善が、救いと関係あるのならば、どんな人も救われるということはあり得ません。

それは善悪・賢愚を選ばず、在家・出家、老若・男女を問わず、あらゆる人々をもらさず救う教えであり、(はじめに ⅰ)

善人か悪人か、どっちが救われやすいか、救われがたいかというのは、廃悪修善の考え方です。賢いか愚かかとかは関係ありません。
親鸞会で言えば、どれだけ「親鸞学徒としてあるべき姿勢」であるかどうかは関係ありません。教学聖典(青い短冊)の試験をどれだけ合格したかは関係ありません。講師か、会員かも関係ありません。会員歴も関係ありません。

阿弥陀如来の本願をはからいなく受け入れるか(信)、それとも自力のはからいをもって拒絶するか(疑)によって、迷い続けるかさとりに至るかが決まる(同)

と言うことです。

「廃悪修善と救いが関係ある」という考えこそ捨てるもの

ここまで書きましたように、浄土真宗の救いには「廃悪修善」は関係ありません。
そんなバカなと思われる会員も多いと思います。そう思うのは、やはりOSレベルで「廃悪修善」がインストールされているからです。
その考えをベースとして、浄土真宗の教えを学ぼうとしても恐らく全く分かりません。親鸞会会員の中で、教学聖典を覚えているような人は「自分はかなり真宗の教えを分かっている」「なんならそこらの住職よりも詳しい」と思っています。
実際、私も過去にそのように考えていました。

OS が違うと言うのは、言語が違うようなものです。例えば、iPhoneiOSというOSで動いています。そこにAndoidスマホのアプリを入れたとしてもアプリは起動しません。
同じように、廃悪修善のOSで、阿弥陀仏の本願を受け入れようとしても、それは全くかなわないものです。

聖道門の考えを根幹にしながら、浄土真宗の衣を着ているようなのが親鸞会の教えです。「外儀は真宗のすがたにて 内心聖道を帰敬せり」です。


どうすれば救われるのか・大事なのは教え

どうすれば救われるかという以前に、先に書きましたが「廃悪修善が救いと関係ある」という考えを一度捨ててみて下さい。その上で、お聖教や仏教の本を読んでみて下さい。

浄土真宗とはどんな教えなのかについて、この「『教行信証』からひもとく浄土真宗の教え」はとてもよい本です。仏教書は、専門的すぎて全体がよくわからないものか、入門書すぎて省略されたものが多く返って全体が分からないものに二分されています。


その点で、この本は不足なく、過剰な部分もなく書かれています。魚を捌く腕前は、どれだけ余分な身が骨に残らないように魚を卸すかだと言われています。そういう意味で、浄土真宗という魚をぎりぎり骨だけ綺麗にとり出して三枚に卸したような本です。より詳しいことが知りたい人は、聖典セミナーの梯實圓和上・教行信証教行の巻・信の巻を読んでみてください。

また、元会員で「浄土真宗の教えとは一体なんだったのか」と思う人も是非手に取って下さい。

2024年07月28日桜嵐坊の仏教部屋に藤澤信照先生が出演

www.youtube.com

桜嵐坊の仏教部屋に、著者の藤澤信照先生が、この「『教行信証』からひもとく浄土真宗の教え」について話をされます。
質問のある方は、桜嵐坊さんへ送ってください。

より詳しい目次

【目次】
はじめに
第一章 「浄土真宗」という宗名があらわす意義

第二章 親鸞聖人の宗教観

  • 第一節 はじめに
  • 第二節 仏教の特徴(三法印
  • 第三節 親鸞聖人の宗教観(真仮偽判)

第三章 親鸞聖人の仏教観(二双四重判)

  • 第一節 二双四重判の背景
  • 第二節 二双四重判

第四章 三願真仮と三願転入

  • 第一節 親鸞聖人の回心
  • 第二節 生因三願と胎化得失
  • 第三節 三願転入

第五章 六三法門

  • 第一節 六三法門とは
  • 第二節 三願(生因三願の違い)
  • 第三節 三経(大経・観経・小経)
  • 第四節 三門(弘願・要門・真門)
  • 第五節 三蔵(福智蔵・福徳蔵・功徳蔵)
  • 第六節 三機(正定聚・邪定聚・不定聚)
  • 第七節 三往生(難思議往生・双樹林下往生・難思往生)

第六章 現生正定聚

  • 第一節 はじめに
  • 第二節 平生業成説
  • 第三節 現生正定聚説の成立背景

第七章 親鸞聖人の仏身仏土説

  • 第一節 仏教一般の仏身仏土説
  • 第二節 善導大師の報身報土説(願力成就の報土)
  • 第三節 曇鸞大師の二種法身説(智慧と慈悲)
  • 第四節 親鸞聖人の仏身仏土説

第八章 四法の大意

  • 第一節 『教行信証』の構成
  • 第二節 本願力回向(二回向四法)の教え
  • 第三節 往相の四法(教・行・信・証)

第九章 真実教

  • 第一節 「真実教」とは
  • 第二節 取願立法(五願開示)

第十章 真実行

  • 第一節 念仏より行信を開く
  • 第二節 第十七願による如来回向の行
  • 第三節 大行名体(大行の名義と体)
  • 第四節 称名は「讃嘆行」
  • 第五節 称名は「正定業」
  • 第六節 名号のひとりばたらき
  • 第七節 称名は「報恩行」
  • 第八節 六字釈

第十一章 真実信

  • 第一節 第十八願の願名
  • 第二節 信心の名義
  • 第三節 三心と一心
  • 第四節 本願力回向の信心
  • 第五節 行一念と信一念について
  • 第六節 二種深信と信疑決判
  • 第七節 親鸞聖人の信心正因論
  • 第八節 信心の利益

第十二章 真実証と還相回向

  • 第一節 必至滅度の願・難思議往生
  • 第二節 真実証の意義(名義と体)
  • 第三節 無住処涅槃
  • 第四節 還相回向

第十三章 浄土真宗の倫理性

おわりに

『教行信証』からひもとく浄土真宗の教え - 法藏館 おすすめ仏教書専門出版と書店(東本願寺前)-仏教の風410年