親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

縦の線と横の線を捨てられない親鸞会(「歎異抄ってなんだろう」書評2)

歎異抄ってなんだろう」は、 一般の人向けに書いた本ではありますが、その主目的は今後親鸞会で話をする人のための法話原稿の作成だと思われます。


この本は全部で7章の構成になっていますが、いずれの章も大体分量が同じであり、またそれぞれの章ごとに板書の見本が書かれています。 今後親鸞会の講師が話をするときは、ほぼどこへ行ってもこの原稿に乗っている話をそのまま話すことになることと思います。

親鸞会講師部員の法話の歴史

親鸞会では以前から、講師部員がどうやって法話をする力をつけるのかについて色々と考えてきました。


最初は、高森会長の話をよく聞いてそれをそのまま話すように推奨されました。そのため顕真学院(講師部員の養成所)では、高森会長の法話をすべて聴聞録に書いて提出するというのが課題になっておりました。 ただ、高森会長の話を聞いてそれをそのまま再現するといっても、録音できない法話聴聞録作成も個々人の力量差もいろいろあり、結果として話す内容は人によってそれぞれ幅がありました。ほぼ高森会長の話を完全コピーのように話することができる人もいれば、 そうでない人もいました。


話す内容を耳で聞いてそのまま再現するというのは、これはこれで素質と技術と訓練が必要なものです。それは落語家にも、名人がいれば駆け出しもいるのと同じ事です。


しかし、2002年(平成14年)に支部長制度が始まり、「法話は各自自由にするように」と改めたところ会員から苦情が多く上がり、「10分間説法原稿」を高森会長監修で制作し、その原稿以外の話をしてはならないという状態が長く続きました。現在は、それは緩和されましたが、基本的にはその原稿をベースにした話をしていることには変わりありません。

講師部員の法話から抜けていること

しかし、10分間説法の原稿には書かれていない内容がありました。それは「どうすれば救われるか」です。

これは高森顕徹会長の著作「なぜ生きる」も同様です。そのため、その後に発刊された「なぜ生きる2」はこのような本となっています。

テーマは「どうすれば、親鸞聖人のように、大悲の願船に乗れるのか」。
なぜ生きる2 | 高森顕徹(著) | 生き方 | 1万年堂出版

ただこの本の内容は、「親鸞会流三願転入」が書かれているためネットでもいろいろと批判をされ、新聞広告にも掲載されなくなりました。


その後仕切り直しの形で発刊された「歎異抄をひらく」には、羹に懲りて膾を吹くように「どうしたら救われるか」には言及しませんでした。
それはアニメ映画「なぜ生きる」「歎異抄をひらく」も同様でした。

しかし、それでも高森顕徹会長が健在の間は親鸞会講師の法話は「どうしたら救われるかは高森顕徹先生から聞かせて頂きましょう。親鸞会館に行きましょう」というところまで言えばそれで問題ないと思っていました。


ところが高森顕徹会長の高齢化によりいよいよ「高森顕徹先生から聞かせて頂きましょう」では済まなくなってきました。そうなると誰が次の会長になるかは知りませんが、これまでの高森顕徹会長と同じ立場で「どうしたら救われるか」を親鸞会館で話をしなければならなくなります。


では、誰が話をするにしてもその人が話をすればよいではないか、何が問題なのかと思われる方もあると思います。それについては、親鸞会がこれまで主張してきたことを知って頂かねばなりません。
 

「この日本で高森先生しか正しく真宗の話が出来る人はいません」

親鸞会では信心決定した人で、教学力がある人でなければ正しく親鸞聖人の教えは説けないと常々主張してきました。そして、今日の日本でそれに該当するのは高森顕徹先生ただお一人であるとしてきました。また、高森顕徹先生から聞かねば今生で信心決定はできないと熱心な会員は思っています。


それが親鸞会館での高森顕徹会長の法話に全国から熱心な会員が足を運ぶ原動力となっていました。


また、親鸞会講師部員で「信心決定した」という人は誰もいないことになっていました。
そうなると、高森顕徹会長が会員の前で話をしなくなった後、会員は誰の話をどんな理由で聞くことになるのでしょうか?

「実は私、信心決定しました」と誰かが宣言をしたとしても、熱心な会員は納得しないことでしょう。

そこで高森顕徹会長監修の法話原稿を作成することになったのだと思われます。

法話原稿としての「歎異抄ってなんだろう」

高森顕徹先生が監修された原稿だから内容には間違いはない」
「それをそのまま話すのだから、高森顕徹先生の話と同じである」
とすることで、自身が法話に立つ責任を放棄したのが、親鸞会講師部員です。


元々「高森顕徹先生から聞かせて頂きましょう」ということで、「法を説く」ではなく、「法話の案内」しかしてこなかったので責任は放棄していました。しかし、親鸞会の教えを信じて「どうしたら助かるのか?」と真面目に聞いてくる会員の声を無視することはできません。

そうしてなんとかなんとか発刊した「歎異抄ってなんだろう」ですが、大きな間違いがあります。批判をされないように気をつけて書いたのは伝わりますが、板書の図は特に間違いなので載せる必要はなかったと思います。

縦の線と横の線

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歎異抄ってなんだろう」P165 聴聞とは

これは親鸞会会員にはなじみの深い図です。かつて高森顕徹会長は、毎回必ずこの図を黒板に書いて話をしていました。

この図から、親鸞会流三願転入の話が加わり「善に励まねば信仰は進まない。この縦の線に出ることはない」と話をしていました。
そのことを書いた「なぜ生きる2」が批判されてより、この図もあまり書かなくなっていたのが昨今の高森顕徹会長でした。

書かなくなったというのは、高森顕徹会長自身がこの板書が間違いだと認めているからに違いありません。

どこが間違いかというと、この本の他の図と対立するからです。

「平生業成」と「横の線」

その図とは以下の「平生業成」です。

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歎異抄ってなんだろう」P173 平生業成

以前は「平生業成」と書いて話をするときは「平生=ただ今」としていました。今回は「生きている時」と表現を変えました。しかし、「生きている時」と確実に言えるのは、やはり「ただ今」しかありません。
「ただ今助かる」が「平生業成」の意味ですから、そもそも「横の線」は存在しません。

もし「横の線」が正しいなら「平生業成」は間違いということになります。

その矛盾を埋めるために、以前は「宿善」、次は「三願転入」という言葉を使ってなんとか辻褄合わせをしてきましたが、基本的構造が対立関係にあるのでどう理屈を持ってきても合いません。

「平生業成は浄土真宗の一枚看板」

高森顕徹会長は、「平生業成は浄土真宗の一枚看板」と常々はなしていました。10分間説法の原稿にも書いた程です。


しかし、「看板」ということで例えるならは、「平生業成」は「ただ今営業中」と出しているようなものです。それに対して「縦の線と横の線」は「間もなく開店」という看板です。ただ会員の実感としては「間も無く開店」どころか、「近日開店」「来年開店予定」です。


「ただ今営業中」の看板をみて店に来てみれば「間も無く開店」では客は帰って行きます。実際親鸞会を辞める人の理由の根本にあるのはそれです。

もう親鸞会に残る理由はありません。

今回の本に書かれていることが、今後の親鸞会での法話の内容です。
いつでもどこでも、親鸞会では聞法者は横の線に置かれます。また自身も横の線にいることにして、ただ今の救いを向こうに置いて向かおうとしています。しかし、最初に向こうに置いたのは自分なのでいつまで経っても縦の線には永遠に辿り着きません。度し難いということです。

横の線をすすめる話もそれを信じる自分も皆捨ててただ今助ける南無阿弥陀仏にただ今救われてください。


貴方が親鸞会に留まる理由はもう何もありません。

追記

出ないと思っていたら読売新聞全国版に広告が出ていました。
2021/12/14 朝刊2面
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