2019年10月6日(日)親鸞会館(富山県射水市)で高森顕徹会長の映画解説が行われました。
午前中は、過去の高森顕徹会長のビデオ法話で、午後から高森顕徹会長が話をしました。
午後からは、以下の和讃についての話だったそうです。
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生死の苦海ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける(高僧和讃)
話の内容はタイトルに書いた通りですが、箇条書きでどんな話だったかを簡単にまとめます。
どうしたら弥陀弘誓の船に乗せて頂けるのか?それは「宿善まかせ」である。
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宿善とは過去から今までやってきた善のこと。
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お釈迦さまは、善を勧めておられる。「廃悪修善」が仏教。
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宿善には厚薄がある。厚い人は早く弥陀弘誓の船に乗せて頂くことができるが、薄い人は時間が懸かる。(遅速あり)
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宿善を厚くするのに、一番は聴聞、できないときは善いことをする。
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雑行を捨てよとは、善をするなということではなく、本願を疑っている心を捨てよということ。
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宿善を厚くしている人には「宿善開発(信楽開発)」ということがある。
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しかし、宿善によって助かるのではない。そこは間違ってはならない。
映画「歎異抄をひらく」が、念仏を勧める場面が多い反動なのか、今回は「善のすすめ」を強調していました。しかし、種々の批判に対して反論をするためにいろいろ話をした結果、何の話をしていたのかが分からない話になっています。それは、上記の箇条書きにした話の内容を御覧になればよく分かると思います。
大きく分けると、2つの点で間違っている話となっています。
- 最初の和讃の説明がミスリード
- 結局なんのために善の勧めの話をしたのか分からない
1 最初の和讃の説明がミスリード
最初に掲げた高僧和讃の解説のなかから、「どうしたら弥陀弘誓の船に乗せて頂けるのか?」というのが、この日の話のテーマ設定になっています。しかし、この問いがそもそも和讃の解説としては間違っています。
「弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」とありますから、阿弥陀仏は「のせて」下さるのですし、「のせた」上で「かならずわたす」と言われています。「のせる」と言われている以上は、乗せて頂いたらよいという話です。
「どうしたら弥陀弘誓の船に乗せて頂けるのか?」という問いは、何かの手段を講じないと乗せていただけないことが前提になっています。
「のせる」ということで言えば、関連した正像末和讃もあります。
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https://bit.ly/2MzzUCd
弥陀・観音・大勢至
大願のふねに乗じてぞ
生死のうみにうかみつつ
有情をよばうてのせたまふ(正像末和讃 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P609)
ここで「有情をよばうてのせたまふ」と言われています。私に乗れよ乗れよと呼び続けて、乗せて下さるという意味です。阿弥陀仏は「乗れよ」と呼び続けておられるのであって、「早く乗るには善をせよ」「厚いものほど早く乗せてやる」とは言われていません。ただ今助けると南無阿弥陀仏と呼びかけられているのですから、その通りにただ今救われて下さい。
しかし、高森顕徹会長の話で「宿善」が出てくるといつも、「宿善の厚い人ほど早く救われる」だから「善をせよ。一番は聴聞(親鸞会館で話を聞く)それ以外の時間は善をしなさい(具体的には、親鸞会の活動参加)」となるので間違いです。
2 結局なんのために善の勧めの話をしたのか分からない
しかし、そのような「宿善まかせ」「善のすすめ」の話をすると、必ずそれは間違いだと批判されてきました。それに対しての言い訳が、後半になると出てきます。
「宿善で助かるのではない。そこは間違ってはならない。」
午後から出てきて、ほぼ全ての時間が「宿善まかせ」「宿善に厚薄あり」「遅速あり」と宿善の重要性を強調し、「宿善が厚くなるには聴聞と善の実行(六度万行)」と話をしてきたのが高森顕徹会長です。
それを聞いて熱心な会員は、会の活動に「宿善が厚くなるから」と、やりがいを感じて一生懸命参加しています。
しかし、どれだけやりがいを感じたとしても、「宿善が厚くなった」と実感する会員はいません。
そして最後の結論が「宿善で助かるのではない」では、何の為に今まで話をしてきたのか分かりません。しかも、大事なのはそこで話が終わっているということです。
「間違ってはならないのは、宿善で助かるのではない」というのならば「何によって助かるのか?」が当然疑問として浮かんできます。また、その疑問について話をしなければなりません。
もちろん南無阿弥陀仏によって救われるのですが、今回もその話はないままこの日の映画解説は終わりました。
「宿善では助からない」「自力では助からない」「ぼーっとしていては助からない」という話はよくしても、一体何によって救われるのかという肝心な南無阿弥陀仏の話がないという高森顕徹会長の話の特徴がよく出ている話でした。
前回の記事で、「講師の二千畳法話」について書きましたが、今回の映画解説のような話を聞くのと、救いがないという意味ではどちらも変わらないと感じました。また、高森顕徹会長が話をしなくなったら、今回のような話をまた講師が続けることと思います。そうなるといつまでたっても、「何によって助かるのか?」についての答えは親鸞会館では聞けないということになります。
もしここまで読まれたこの日参加していた会員の方がおられましたら、「宿善では助からないなら、どうしたら助かるのか?」という疑問は起きなかったでしょうか?信心の沙汰の場でもあれば、そのことについて考えてみて下さい。