親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会の今後がわかる「ブラジルから届いた歓喜の手紙」(顕正新聞平成29年9月1日号)

顕正新聞平成29年9月1日号を読みました。
一面に掲載された記事を読んで感じたことを書きます。
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見出しは「晴れて大悲の願船に」ブラジルから届いた歓喜の手紙でした。
内容としては、ブラジルの会員が、映画「なぜ生きる」を見て「大悲の願船に乗せていただけた」というものでした。

毎日、大きな喜びを胸に真剣に聞法させていただき、晴れて大悲の願船に乗せていただくことができました。(略)
映画『なぜ生きる』を拝見し、またサンパウロ会館でも、そのご解説を通訳で聞かせて頂き、不可称・不可説・不可思議の無上仏の救いにあわせていただくことができました。(顕正新聞平成29年9月1日号1面より抜粋)

最初に書いておきますが、このブラジルの親鸞会会員の方が救われたといわれていることの真偽をあれこれというつもりはありません。本願力回向のお救いですから、親鸞会に所属している方が救われたとしても不思議なことではありません。

しかし、実情として親鸞会では、私も含めて脱会した人が「阿弥陀仏に救われた」「信心決定の身になった」というと、全て「それは異安心だ」と主張します。顕正新聞でも、たびたび脱会した人や親鸞会以外で「救われた」という人を「群賊悪獣」「体験至上主義」「自称獲信者」と呼び、「彼らの信心は所詮体験しかないのだ」とか「そんな簡単に獲られる信心ではない」と一刀両断してきました。

その一方で、親鸞会のなかで数年に一度あるかないかという「私は救われました」という高森会長への手紙は一面扱いです。一般紙でいえば、いわゆるトップ記事扱いというわけです。普通の新聞記事でもそうですが、トップ記事というのは珍しいことが起きた時、読者が驚くようなことが掲載されます。それだけ「大悲の願船に乗せていただいた」というのは、親鸞会では数年に一人あらわれるかどうかの希少なことなのです。


それでも、親鸞会会員であれば一面扱いでその信心にお墨付きを与えています。どうも親鸞会では、真実信心か否かの分かれ目は「親鸞会会員であるか否か」にあるようです。
実際、私が親鸞会にいたころは、親鸞会会員以外で信心決定した人は世界中を探してもいないと本気で思っていましたし、多くの会員は今でもそう思っています。


なぜなら、親鸞会では「高森顕徹会長の話を直接聞かねば救われない」ということになっているからです。その為に、どんな犠牲を払ってでも、富山県親鸞会館まで高森顕徹会長の話を聞きに会員は足を運んでいます。


ところが、今回の顕正新聞の一面の内容を見ると、親鸞会は大きくその「高森顕徹会長の話親鸞会館で直接聞かねば救われない」の方針を転換した(又は今後する予定)ようです。


今回のブラジル在住の会員の方は、日本語が聞き取れない方であり、富山に足を運んで直接高森顕徹会長の話を直接聞くことが難しい環境にあります。それにも関わらず、映画『なぜ生きる』を見て、その解説をネット中継で通訳を介して聞いていったら救われたというのですから、日本の会員にあてはめるならば、「富山に行かなくても救われるんだ」と機関紙の一面に書いているようなものです。別の言い方をすると、映画「なぜ生きる」を見て、その解説を聞けば救われるというのが今後の親鸞会の方針のようです。


最後にまとめますと、現在の親鸞会は、高森顕徹会長が今までのように毎月何回も会員に法話や座談会で話をできなくなる状況に向けて、右往左往しています。
親鸞会としては「高森顕徹会長の話を聞かねば救われない」と、今まで何十年にもわたって言い続けて来たことを今更曲げることはできません。しかし、いつかは「高森顕徹会長の話を聞かねば救われない」にも関わらず遠くない将来に「高森顕徹会長の話が聞けない」状況が発生します。そこで今後は、映画『なぜ生きる』こそ高森顕徹会長の話そのものであり、その解説を聞けば救われると会の方針を変えたのでしょう。


ここまで、読まれた親鸞会をよく知らない方は、なぜ次期会長が話をしないのだろうかと思われるかも知れません。
それは、たとえ誰が次期会長になったとしても、まともに現在の会長のように「私は救われた」前提で話ができる人がいないからです。
以前高森顕徹会長から「正しく親鸞聖人の教えを伝えれば、自分が救われていなくても人を救うことが出来る」と、当時の全講師部員は聞いていますが、それをそのまま忠実にやりきることの出来る親鸞会講師部員は一人もいません。
実はひっそりと親鸞会が終わっていた件(顕真2014年9月号より) - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ
なぜならば、親鸞会講師部員の多くは、「自分は救われた」と言えるような信心がないからです。その一方で多くの講師部員は「正しく法を伝えねば」と使命感を持っています。そんな親鸞会講師部員にとって、一番辛いことは、自分自身が救われてもいないのに、「必ず救われます」と人にいうことです。


というのは、多くの講師部員は多くの犠牲を払って、それでも救われていないにも関わらず「平生業成ですからね」「現生不退ですからただ今救われます」と言い続けるからです。以前もブログに書いたことがありましたが、私の先輩講師は「自分が救われていないのに、皆さんに救われますということが一番辛い。でもそれを乗り越えないと講師部員の使命は果たせない」と言っていました。
これは、自身が実感したこともない健康食品を売り歩くセールスマンに似た精神構造です。自分がそうなったわけでもないのに「血圧が下がりますよ」「痩せますよ」「膝が痛くなくなりますよ」と言い続けるのは、まともな神経ではいられません。
なぜなら本人のなかでは、そう言うままが嘘をついていることになるからです。それは必ずストレスになり、私が親鸞会講師部員でいた10年間の間に、精神的な疲労により講師部員を辞めた人は何人も見てきました。今振り返ると、本当に真面目で繊細な人だったのだと思います。自分も含めて、多くの会員が救われない現状を知りながら「親鸞会でなければ救われない」と言い続けるのは辛いことです。親鸞会にいたころの私は「親鸞会では救われない」とは思わないものの「親鸞会に入会する人の多くは救われる」とは思っていませんでした。それでも、「少ない可能性かもしれないけれど、外に道はないのだから」という気持ちで人に親鸞会の教えを伝える活動を続けていました。

当時講師部員だった私の立場に立って見ると、「親鸞会でないと救われない」の根拠は「高森顕徹会長」でした。「高森顕徹会長の話を聞かねば救われない」というのが多くの会員の共通認識です。その高森顕徹会長が話をできなくなる時が、遠くない将来になった今、アニメ映画「なぜ生きる」に高森顕徹会長の座を引き渡そうとしているのが今の親鸞会です。

その方法は、私が親鸞会講師部員だったら現状ではそれしかないと思うかも知れません。しかし、それが会員に通用するのは高森顕徹会長の話を直接聞いた人がいる暫くの間のことです。

なぜなら、たとえば20年後に映画「なせ生きる」を見た人が、「高森顕徹(当時の)会長の話のままだよ」と言われて納得する人はいないからです。したがって、高森顕徹会長が引退したあとの親鸞会には、会員をつなぎ止める要素は「かつて高森顕徹会長の話しを聞いたことがある人」にしか通用しません。そうなると、新規に親鸞会に入会する人はあっても続ける人は決して多くはないと予想されます。

ここまで読まれた親鸞会会員の方があれば、その人に最後に一言付け加えます。貴方は、高森顕徹会長に救われたいのでしょうか?それとも、阿弥陀仏に救われたいのでしょうか?よくよく考えてみて下さい。