親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「捨てものは「自力の心」ただ一つ」の論説(顕正新聞平成29年8月1日号)を読んで思ったこと

顕正新聞平成29年8月1日号を読みました。一面と論説から読んで思ったことを書きます。

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一面は、シネマ学院の施工業者へのインタビューでした。どれだけ高機能な映像設備なのかが詳しく説明してありますが、まるでよい施設で視聴すると映画「なぜ生きる」の内容が正しい真宗になるかのような記事でした。

映画『なぜ生きる』の上映に特化した施設なので、その素晴らしさを最大限に引き出せる設備といえるでしょう。
(略)
一般の映画館を超えた、最高レベルの施設と考えていいと思います。
映像も音響も、日常の体験を超えた「超体験」を完成目標としているので、注文は厳しいですがすごくやりがいのある仕事ですね。
顕正新聞平成29年8月1日号1面 シネマ学院設計施工業者に聞く)

一般の映画館より更に高機能な音響施設で造られているようですが、だからといって同朋の里に上映専門施設を建てる必要は全く感じません。これまで親鸞会ではいろいろと理由をつけては、箱物を造ってきました。


例えば、親鸞会館(二千畳の正本堂)完成後の地下道は、雪の中でも駐車場から会館まで楽に会員が移動できるようにといったものでした。実情は、親鸞会館と駐車場の間に公道があり、行事日に多くの会員が横断するのが地元の住民から通行の邪魔だとの意見があったためです。そのような実情は会員には一切説明なく「会長先生が雪の中を歩く会員さんの姿を見て、参詣者が怪我をしないようにということで地下道を提案してくださった」ということになっていました。


その地下道も当時の会員の間でも、「本当に必要なのか」との声がありましたが、雨や雪の日に濡れないという実用面は多少あったのでなんとなく納得する人もいました。
その後、信心の沙汰をする同朋の里、その中にできたコンビニ、食堂、大浴場、宿泊施設等々を建設してきました。どれも、外部から見れば「どうして必要なのか」と思うようなものばかりです。それでも、いろいろ理由をつけて建設してきました。


しかし、今回のシネマ学院ばかりは、会員に対しても言い訳が立ちません。
まず、この映画「なぜ生きる」は、真宗の教えを多くの人に弘めるために作成したはずのものですから、富山県親鸞会の施設内で専門上映館があることはその目的にまったく叶いません。
加えて、現在でも地元の会場やシネマバスで上映をしている(できる)映画を、わざわざ別に上映館をつくる必要はありません。
この紙面から分かる事は映画『なぜ生きる』が最高レベルの映像、音響で見ることができることしかありません。それが果たして、会員からお布施を集めてまでしなければならないことでしょうか?

今回のシネマ学院でよくわかることは、親鸞会の箱物は「必要だから」建てているものはもはやないということです。「建てねばならないから建てている」というのが実情のようです。その理由について親鸞会は一切説明はありませんが、いずれにしろそれらの箱物の建設費用は会員が負担しなければなりません。


このような会員からお布施を募る時に、顕正新聞の論説はいつも似たような話を書きます。いわゆる「善の勧め」です。ここ最近の論説では、外部からの批判を気にしてかそれについての記事は書いてきませんでしたが、いざ箱物を建てる段になると、元通りの状態にもどります。それが親鸞会の本質といって間違いはありません。

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「雑行」の体は諸善万行だから、「雑行を捨てよ」を「諸善を捨てよ、やめよ」と誤解して、善の勧めを排斥するものが浄土真宗には非常に多いのである。
とんでもない誤りだ。
諸善に努めねば善い果報は来ない。阿弥陀仏の本願を疑って、自分の行った善を弥陀の救いに役立たせようとする「自力の心」が悪いから、雑行と嫌われ、捨てよ、と言われるのである。
顕正新聞平成29年8月1日号論説より抜粋)

これだけ読んで納得する人は、あまり多くないと思います。これを納得しているのは、論説を書いている人くらいではないかと思います。

細かくは書きませんが、「雑行、雑修、自力の心をふり捨てて」の領解文が前述の文章の前に出てきます。当然、阿弥陀仏に救われる話、一大事の後生の話が書かれている流れにも関わらず「諸善に努めねば善い果報は来ない」と突然文脈にまったく関係ない文章が入ってきます。この文章は、親鸞会が雑行の話をするときには必ずといっていいほど出てきます。しかし、繰り返しになりますが、阿弥陀仏の救いと全く関係ない話です。


つまり、この文章(諸善に努めねば善い果報は来ない)が一番今回の論説でいいたいことだということです。また、高森会長が一番いいたいことでもあります。言い換えれば、「お布施を出さねば善い果報は来ない、だからお布施を出しなさい」です。


ここまで読まれた親鸞会会員の方には思い当たるところがあるのではないでしょうか?
親鸞会で「雑行」の話を聞いた時、心に何が残ってきたでしょうか?
私が記憶している範囲では、大体以下のものでした。
「雑行捨てねばならないが、諸善をするなということではない、むしろやらないと善果はこないから頑張ろう」
「自力の心は捨てねばならないが、諸善は捨ててはならない」

阿弥陀仏の救いは、南無阿弥陀仏を聞く一つなのですが、「聞くか聞かざるか」の話が、いつの間にか「善をするか捨てるか」の話にすりかわっています。南無阿弥陀仏で往生するかしないかの話が、善果が来るか来ないかの話になっています。


結果として、親鸞会会員が常に考えていることはどうすれば善果がくるような善をすることができるかに留まったままです。
どうすれば、富山の行事に参加できるか、どうすれば推進されるお布施の金額を用意することができるか、どうすれば参詣目標に届くか。そのためには誰に声をかければいいだろうか。

そうやって、阿弥陀仏の救いと自分の善を切り離せない考えを自力の心といいます。捨てねばならないのが自力の心と論説でいうのならば、阿弥陀仏の救いと善を関係づけるような記事を掲載する親鸞会こそ捨てねばなりません。2017年08月06日(日)は親鸞会館で会員追悼法要ですが、これまでに熱心に親鸞会のいうことに従って来た人が、もし声を出せたらどんな事を語られるのか、これをご縁に我が身に引き当てて考えて見て下さい。

以前、ブログにも書きましたが、以前ある会員の方がなくなる前にこう仰っていたことを耳にしました。
その方は、大変熱心な活動を続け、親鸞会の勧めるお布施にも何時も積極的に参加していました。高齢となり、亡くなる前に「これまで五千万円財施したけど、獲信できなかった……」と言われました。
こういう話をすると、高森会長はじめとして、親鸞会の講師は「お布施をしたら助かるなどということは、一度もいった事がない!聞き間違いだ」と言ってきました。本人を目の前にしてもこんなことが言えるでしょうか?本人を目の前にして言わなくても、そういうことを口にすれば言ったも同然です。

しかし、それは聞き間違いでも何も無く、親鸞会の教えを「正確に」聞けばそうなります。
自力の心を捨てる前に、間違った教え捨てて下さい。南無阿弥陀仏は必ずただ今救って下さいます。