親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会講師の「信前の念仏で助かる訳ではないのに、勧めるのは矛盾だといわないのに信前の善は助かる訳ではないのに、勧めるのは矛盾だというのはなぜ?」について

前回の記事の続きです。
shinrankaidakkai.hatenablog.com

個人的には、「親鸞会の三願転入」について、これほど明確にネット上で言語化されたのは初めてだと思っています。

20願の自力の念仏だからと言ってすすめないということはないじゃないですか。念仏は信前信後を通して大事なお勧めですよね。19願の善も阿弥陀仏のお勧めですからですから往生浄土の方便の善となるんですよ。
親鸞会さん と 本願寺派さん どう違う?(ゲスト)添谷亮介さん「桜嵐坊🌸の仏教部屋」 - YouTube

親鸞会講師筬島正夫氏のコメント

これは、偽らざる親鸞会講師の本音の言葉です。また、この文章を読んで違和感を感じない親鸞会会員の方も同様の意見かと思います。
しかし、ここが根っこにあると、仮に伝統教団から出ている本を読んでも理解が出来ないと思います。

「念仏で助かる」とは思っていない親鸞会

先の筬島氏のコメントに「信前の念仏で助かる訳ではないのに、勧めるのは矛盾だといわないのに、信前の善は助かる訳ではないのに、勧めるのは矛盾だというのはなぜ?」とあるように、「信前の念仏」と「信前の善」は親鸞会講師の頭の中では、ほぼ同列として扱っています。
しかも、どちらも「それによって助かる訳ではない」という点で共通しています。

彼らの頭の中をいえば「念仏でも善でも助からない」と思っています。これは、私が親鸞会に在籍していたころに考えていた事なので、よく分かります。

ですから、法然聖人が勧められた「念仏為本」「称名必得生」*1というご文や、親鸞聖人のご和讃の「念仏成仏これ真宗*2のお言葉を読んでも「よく分からない」というのが実態です。

分からないのでこの部分については「念仏成仏とは書いてあるけれども、この念仏は他力念仏だから信心のことなのだ」と内部で言っているのが親鸞会です。

「では何によって助かるのか?」親鸞会聴聞です」

では、善でも念仏でも助からないのならば何によって親鸞会会員は救われると思っているのでしょうか?
それは「聴聞に極まる」だから「聴聞で助かるのだ」と思っています。

しかも、「善知識・高森顕徹先生」しか「正しく真宗の教えを説ける人はいない」と思っているので、「高森顕徹先生」とその教えをそのまま伝える親鸞会講師の話を聞くしかないと思っています。

ただ「高森顕徹先生の話」なら何でもいいのでしょうか?私も親鸞会にいた頃は、「高森先生の話なら何でも助かる」と思って聞いていた訳ではありません。例えば「因果の道理」の演題の時は、一日聞いても阿弥陀仏の本願と言う言葉が最後に少し出るだけです。演題を聞いて「今日は初めて来られた方のための話だ」と思うのが、長年の講師や会員の本音です。精神論として「私たちは因果の道理が分かっていないのだから、繰り返し聞かせて頂くのだ」と言いますが、「因果の道理を聞いて救われる」というのは、さすがに親鸞会の人間で思っている人は誰もいません。

そこで「続けて聞いていけば、救いと関係ある話が聞けるかも」という気持ちで法話だけでなく教学講義、座談会に参加しているのが親鸞会会員です。

しかし、多くの会員にとって「何によって救われるのか」という点については、実に曖昧です。「聴聞に極まるのだから高森先生の話を聞けばいつか何とかなる」と漠然と思っているのが実態です。

親鸞会での「聴聞」「念仏」「善」の関係について

このように、親鸞会では「何によって助かるか」は「聴聞」の一択です。とにかく「聴聞」が最優先されます。それ自体は「聴聞に極まる」という点では良いのかもしれませんが、「話の内容に関係なくとにかく聴聞することが大事」というのが実態です。

聴聞とは「親鸞聖人の教えを」聞くことです。具体的に言えば「仏願の生起本末」であり「南無阿弥陀仏のいわれ」「他力信心のいわれ」を聞くことです。

しかし、「仏願の生起本末」や「南無阿弥陀仏のいわれ」「他力信心のいわれ」に関しての話であれば「念仏成仏これ真宗」について避けることはできません。それほど「真宗の救い」と「念仏」は不可分なものです。

それにも関わらず、親鸞会ではことさら「救い」と「念仏」を関係づけようとはしません。むしろ「念仏称えても助からない」とか「念仏さえ称えれば助かると思っているのは大間違い」ということばかりを会員にいうことで、それをより強調しています。

むしろ「念仏では助からない」とさえ親鸞会の会員は思っています。そのあらわれが、親鸞会講師・筬島氏のコメントの発言です。

では、「助からない念仏」「助からない善」をなぜするのか、また人に勧めるのかと言えば、親鸞会講師の添谷氏が言っているように「阿弥陀仏が勧めているから」ということになります。その理由は「19願で善を勧められているから」「20願で自力念仏を勧められているから」というものです。

19願での善の勧めについて

これについて、教学的な解説はすでにいろいろとネットで書かれています
19願で善を勧められているのだから、善を勧めることはOKというのは、親鸞聖人の教えにはありません。
これは、諸行本願義をあらわした、浄土宗九品寺派の長西の説と似ています。(文末参照)

簡単にいいますと、法然聖人は念仏を「往生行」それ以外の善(雑行)を「非往生行」とされました。それについて、さまざまな批判が起きました。
法然聖人が往生された後、出雲路の住心房覚愉から「19願に諸行をしたものも往生できるとあるではないか、念仏往生のみを掲げるのは間違いではないか」という批判が起きました。確かに大無量寿経を読む限りでは、18願に念仏往生を誓われていると同時に、19願に諸行往生を誓われているということには、一定の筋が通っています。そこで、「19願にあるのだから、諸行は往生行であり、非往生行であるという法然聖人の主張は間違いだ」という主張に対して、法然聖人のお弟子方はそれに答えるべく苦心惨憺しました。


それに対して、法然聖人往生の後、出雲路の住心房覚愉から教えを受けていた覚明房長西は「諸行本願義」を打ち立てました。いわゆる「念仏往生」も「諸行往生」も阿弥陀仏の本願であるという、聖道仏教の学者達に対する折衷案のようなものでした。

「善の勧め」がやめられない理由

「19願で勧められているから」というのは、善を勧める理由の一つではあります。しかし、その大本の理由は「念仏で助かるとはとても思えない」というものです。繰り返しになりますが、親鸞会会員は「念仏で助かる」と言う点に対しては、アレルギー反応のような考えをします。
それは「念仏称えても助からない」というガンとした思い込みによるものです。
加えて「19願で善が勧められている」と聞くと、ますます「善が必要」と考えます。

念仏成仏これ真宗

親鸞聖人の教えは、法然聖人の教えをそのまま伝える形で「念仏成仏これ真宗」です。
「念仏」は私の行でもなく、阿弥陀仏の行そのものと教えられます。

ですから、教行信証にはこのように説かれています。

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。(顕浄土真実行文類 - WikiArc浄土真宗聖典註釈版P186)

念仏は「自力の行」ではありません。したがって「念仏で救われる」というのは「自力念仏」のことではありません。
また「不回向の行」と言われていますので、念仏は私が阿弥陀仏に救いを求めてする行ではありません。
親鸞聖人は「念仏成仏すべし」と言われています。

念仏によって救われるのが、浄土真宗です。「念仏で救われる」を外して、「念仏では助からない」という親鸞会は、浄土真宗ではありません。

参照

ちょうさい/長西
元暦元年(一一八四)—文永三年(一二六六)一月六日。房号は覚明。法然門下の上足の一人で、九品寺流諸行本願義の祖。讃岐国西三谷にしみたに(香川県丸亀市飯山町)に生まれ、上洛して俗典を学んだが、建仁二年(一二〇二)、一九歳のときに出家して法然の弟子となった。以後、法然が入滅するまで常随し、その後は同門の兄弟子である証空、出雲路の住心房覚愉、さらに泉涌寺せんにゅうじの俊芿しゅんじょうや道元等の諸師を訪ねて広く諸宗を修学した。「諸行非本願」を唱えた法然とは異なり、覚愉の影響を受けて「諸行本願」を主張したとされる。晩年は洛北九品寺に住して、著述をなすと共に門弟の育成にも努めた。『源流章』を著した東大寺の大学僧・凝然も若き日に長西の『観経義疏』の講義に列席しており、当時長西の学徳が高く評価されていたことが知られる。現存する著作に『浄土依憑経論章疏目録』(『長西録』)一巻、『観経疏光明抄』一八巻(約半数が現存)、『専雑二修義』四巻(巻第四のみ現存)などがある。

長西 - 新纂浄土宗大辞典

しょぎょうほんがんぎ/諸行本願義
法然門下の長西が主張した、念仏以外の諸行も本願として位置づけ極楽往生を期する教え。法然が『選択集』三で、称名念仏のみを極楽往生のための本願行とし、それ以外の諸行を非本願の行と位置づけたが、長西はそれを、『無量寿経』に説かれる阿弥陀仏の第十八願を根拠に述べているところであって、第十九願・第二十願には及ばないとし、特に第二十願「もし我仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、諸もろの徳本を植え、至心に回向して、我が国に生ぜんと欲せんに、果遂せずんば、正覚を取らじ」(聖典一・二二七/浄全一・八)を基に、称名念仏以外の諸行も阿弥陀仏の本願行であるとした。本義は当時より師説から乖離しているとの批判を受けたが、長西は念仏と諸行を総別勝劣に分けて、師説との接合を図ろうとしている。この諸行本願義は、諸行を非本願とした法然の説を理由として弾圧が横行する中、諸行の価値を位置づけることによって、他の教義との融和を図っていこうとする意図を有している。この説を受けた長西の門流には、華厳・真言・禅・律との親和が生まれ、特に鎌倉や京都で真言律宗と結び、広く支持を受け、影響力を保持した。

【参考】石橋誡道『九品寺流長西教義の研究』(佛教専門学校出版部、一九三七)

諸行本願義 - 新纂浄土宗大辞典

追記 コメント欄より

Abc

エントリーありがとうございます、読ませていただきました。

(山も山さん:上のエントリーにて)
法然聖人往生の後、出雲路の住心房覚愉から教えを受けていた覚明房長西は「諸行本願義」を打ち立てました。いわゆる「念仏往生」も「諸行往生」も阿弥陀仏の本願であるという、聖道仏教の学者達に対する折衷案のようなものでした。

→今しがた説かれていただいた「九品寺派 長西」の説も仰る通りではございますが、Abcは「浄土宗鎮西派」(現:宗教法人浄土宗)も「諸行について説かれている派閥」として受け取っています。

こちらの「浄土宗鎮西派」では「二類各生説」という

「念仏を唱えましょう。念仏は皆が極楽往生できる方法です。
 ただ善行を働くことも極楽往生するための方法になりますよ」という思想

を指します。ルパンさんが「念仏も大切ですが、諸善も誓われているので大切にしなければなりません」と伝えているところになりましょうか。こちらの「鎮西派」は弁長上人という方が建てられた派閥となります。

一方の「浄土宗西山派」は、『宗教法人浄土宗』には含まれませんが、現存する浄土宗二派のうちの一であります。
こちらの教義は「一類往生説」という

「念仏を唱えましょう。念仏こそが皆が極楽往生できる唯一の方法です」という思想

を指します。「西山派」は証空上人が建てられた派閥で、私のところの『当麻曼荼羅』をご覧になられ、布教された証空上人でもあります。親鸞聖人とは「体失・不体失の諍論」にて争われたようですが、「自力では往生できず、他力(=阿弥陀の力)による往生しか不可能だ」という点では、親鸞聖人と意をともにしております。

横から申し訳ございませんが、
 今しがた紹介していただいた「九品寺派」は現存しておりませんが、「鎮西派」にて「「念仏往生」も「諸行往生」も阿弥陀仏の本願である」と説かれているようです。

 Abc

*1:浄土真宗聖典註釈版P196

*2:浄土真宗聖典註釈版P569