親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「これだけ耐えてきたことに、一体、どんな意味があったのか」文末ににじみ出る著者の本心ー「人生の目的・旅人は、無人の広野でトラに出会った」(高森顕徹監修・高森光晴・大見滋紀共著)

目次

2024年は「人生の目的」を中心に展開する親鸞会

2024年の親鸞会は「人生の目的」を前面に推し進めて活動を展開しているようです。昨年刊行された「人生の目的」は10万部を突破したとの事で、広告も「人生の目的」が主軸で、それに加えて「歎異抄をひらく」を展開していくようです。


親鸞会機関誌・顕真2024年1月号にはこのように書かれていました。

昨年7月末にご発刊の『人生の目的』(高森顕徹先生監修)は、わずか5ヶ月で10万部を突破した。「人生の旅は独りぼっち このさびしさは、どこから?」のフレーズに心を鷲づかみにされた多くの読者が、ブッダの説かれた「人間の実相」の例えから、「何のために生まれてきたのだろう」「本当の幸せって何だろう」と考えさせられ、「老・病・死を超えた幸せ」に誘引される。
やがて『歎異抄』1章の『摂取不捨の利益」、7章の「無碍の一道」こそが、『老・病・死を超えた幸せ』であり、人生究極の目的であることを知るだろう。『歎異抄をひらく』は、歎異抄解説書として、空前の65万部の大ベストセラー。まさに『人生の目的』『歎異抄をひらく』の2冊は、全人類を永遠に救済する書なのである。
(顕真・2024年1月号P4・特集「ご生誕850年」は真宗史の大転換 より)

以前、1万年堂出版の新刊「人生の目的 旅人は、無人の広野でトラに出会った」(高森顕徹監修・高森光晴・大見滋紀共著)を読んだ上での記事を書きました。
shinrankaidakkai.hatenablog.com
shinrankaidakkai.hatenablog.com


今回はその続きを書きます。
人生の目的 旅人は、無人の広野でトラに出会った

本文最後に出てくる著者の本音

この「人生の目的」についての記事第3回目となります。


今回は、本文の最後のあたりの文章が気になりましたので、そこについて書きます。
それは、以下の部分です。

それらの苦難に耐えて、やっとやっと乗り越えて来られた方もありましょう。
「もっと、あの時、こうしておけばよかった」「これだけ耐えてきたことに、一体、どんな意味があったのか」と、反省したり、悔やんだりされている方も有りましょう。
しかし、それらの一切は、人間に生まれた唯一の目的を果たす道程であり、ムダは一つもないのだよ、と、ブッダは優しく見守ってくだされています。(人生の目的 P179 本文ほぼ最後)


特に

「これだけ耐えてきたことに、一体、どんな意味があったのか」と、反省したり、悔やんだり

の部分は、著者の本音が現れています。


この本は「高森光晴・大見滋紀共著」となっておりますが、親鸞会の書籍発行の現場を多少なりとも知っている人間からすると、土台となる文章は大見滋紀さんが殆ど書いたんだろうと思います。その土台となった文章を弘宣局や1万年堂のスタッフ複数人で検討を重ねて本にするという形式となっています。


そういう意味で、この本は親鸞会にいた事のある人が読むと、著者の魂を感じない文章が殆どです。これは、親鸞会発行書籍全般に言える事ですが、過去の高森会長の著作や、法話内容のコピー、又は改変の文章が多く、書いている人の心の動きが読めない文章が殆どです。親鸞会発行の顕正新聞や、顕真で特に読まれない記事はいわゆるコピー記事です。


その点でいうとこの「人生の目的」はほとんどが親鸞会書籍の過去のものの焼き直しが殆どで、「著者」の魂が感じられるものがありません。その意味で、先にあげた巻末の文章に私は著者の心の動きを感じました。


特に親鸞会講師部員は、「人生の目的」の為にあらゆる事を犠牲にしてきた人が多いです。色々な理不尽な目にあっても、教義上疑問に思う事があってもそれを乗り越えてきたのが、今も講師部に在籍している人たちです。

「ムダは一つもない」ですませていい問題ではない

しかし、いろんな事を犠牲にしながらたどり着いた現在地に何があったのでしょうか。「反省したり、悔やんだり」していることが多いと思います。


たとえ救われることはなくても「ムダは一つもないのだよ」と自分を納得させているのが現状です。
「ムダは一つもない」と優しく見守るのがブッダなのでしょうか?


二河白道の譬で、お釈迦さまはこう言われています。

東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と(顕浄土真実信文類 (本) - WikiArc


旅人に向かって、「この道を往け」と勧められるのがお釈迦さまです。「この道」とは、

また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。(同)

と喚ばれる阿弥陀仏の勅命の他にありません。

もう終わったと思うのはまだ早い

ここ数年の親鸞会から感じることの一つには「分かった顔」をしている人が多いという点です。Youtubeに顔を出して話をしている親鸞会講師の動画をいくつかみましたが、みな「分かった顔」をしています。
私が在籍していた頃といっても、15年以上前ですが、その頃の講師の法話や講座というのはある種の「迷いのなさ」はあったとしても「分かった顔」をしている人はあまりいなかったと思います。


それは「本当は平生業成の教えなのだけれども、自分はまだ救われていない。」「そんな自分が平生業成の教えだと人前で話をしている現実」についてのある種の「やましさ」と言うものがありました。私も先輩講師から「まだ救われていない自分が救われますよと大声で叫ぶのが一番のストレスだ」と聞いた事があります。


この「分かった顔」というのは、それらの「疚しさ」が全くなくなった顔だと言う事です。では以前と何が変わったのでしょうか。それは「救われる教えである」という前提が崩れ「救われなくても当然だ」と頭の中が切り替わったのだと思います。


以前はあった「本当は平生に救われる教えなのに自分はまだ救われていない」という考えから「そうはいってもめったに救われる人はいない。教えとして救われることは疑いないが、自分が救われる事はない」と自分の中で、「求道」が終わってしまったのだと思います。


どの道救われないのなら、せめて人に伝える事は頑張ろうとなにか「分かった顔」になってしまったのが今の講師部員だと思います。

しかし、終わったと思うのはまだ早いです。

ムダだったと感じる事はすぐに止めましょう

少なくとも親鸞会において「これだけ耐えてきたことに、一体、どんな意味があったのか」と考えることは、少なくとも私がただ今助かるかどうかと言う事については無意味です。ムダだったと感じる事は直ちに止めましょう。


現在親鸞会では、地震被害を受けた二千畳の復旧作業とそれに向けたお布施を募集しています。二千畳については、当初は「一堂に高森先生の法話聴聞する」と言う事でしたが、今は「ビデオ法話映像の上映会場」になっています。
ビデオ上映をするだけならば、現在でも間に合っている旧会館で用が済む事です。そもそもビデオ法話の映像をみるだけなら、旧会館の方が高い場所のスクリーンをみなくてよいので見やすいです。


今後誰が話をするかはわかりませんが、説法に立つ人の法話の参詣者が、旧本部会館で収容しきれなくなった時に、二千畳を復旧させればいいだけの話です。


ビデオ上映の目的で言えば、明らかに広すぎる上に適していない二千畳を急いで復旧する事にかなり無理なお布施を募っていますが「これだけ耐えてきたことに、一体、どんな意味があったのか」と多くの会員が感じているのではないでしょうか。


阿弥陀仏は、いつでもただ今助けると喚びかけておられます。
今までやってきた事の意味を考えているヒマがあったら阿弥陀仏の勅命を聞いて救われてください。