親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「阿弥陀仏の創られた南無阿弥陀仏の御心を聞く一念に、無上の幸福になれる」について思った事- 「人生の目的・旅人は、無人の広野でトラに出会った」(高森顕徹監修・高森光晴・大見滋紀共著)

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前回の記事で特に気になる文章として以下を紹介しました。

ブッダは、阿弥陀仏の救いについて、簡単明瞭、以下のように励ましていられます。
諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念(大無量寿経
ブッダの、このお言葉を平易に言えば、「どんな人も阿弥陀仏の創られた南無阿弥陀仏の御心を聞く一念に、無上の幸福になれるのだよ」と優しく説かれています。(人生の目的・旅人は、無人の広野でトラに出会った  P172)

今回の記事は上記についての追記です。

目次

阿弥陀仏の創られた南無阿弥陀仏」について

阿弥陀仏の創られた南無阿弥陀仏」と書くと、「阿弥陀仏という仏」が「南無阿弥陀仏を創造された」という意味になりこれは間違いです。
法蔵菩薩であられたときに建てられた五劫思惟願とそれを兆載永劫の行が成就して、阿弥陀仏南無阿弥陀仏)となられました。従って、南無阿弥陀仏とは「阿弥陀仏が創られた何か」ではなく、阿弥陀仏そのものということです。

言い換えると、法蔵菩薩の願行が成就した結果として、阿弥陀仏南無阿弥陀仏)となって下さったということです。
親鸞聖人は、このように書かれています。

この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。

これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。 (一念多念証文 - WikiArc浄土真宗聖典註釈版P690)

色も形もない一如(真如)から形を表して法蔵菩薩となられて本願を建てられ、阿弥陀仏となられました。阿弥陀仏は「かたちをあらはし、御なをしめして」私を救うために働いて下さっています。阿弥陀仏は、具体的には「南無阿弥陀仏」という御名となって、私の口から称えられる相になって下さっているということです。
ですから、南無阿弥陀仏は「阿弥陀仏の名前」「阿弥陀仏の喚び声」という言い方はありますが、別のものではありません。「阿弥陀仏が私を救うための道具」のように「人生の目的」には書かれていますが、そういうことではありません。

歎異抄ってなんだろう」の影響

この著者がどうしてこのような書き方をしたのかを考えると、前作「歎異抄ってなんだろう」の影響だと考えられます。

前作には以下の記述があります。

名医・弥陀は「すべての人の『死後が暗い心の病』を治し、万人を無上の幸福に救う」と誓われ、「南無阿弥陀仏」という妙薬を創られました。
もし、この弥陀の創られた妙薬を特効薬に例えることが許されるのならば、(歎異抄ってなんだろう・P126)

ここで「創られた」という表現があります。これは「創薬*1」という言葉から持ってきたのでしょう。

ただこれはあくまで、「阿弥陀仏を医者に譬えるならば、病気を治す薬にあたるのは南無阿弥陀仏です」という「譬え」に沿った文脈での話です。新薬は「創る」ものですから、「創られた」と書いてもそこは問題ありません。

しかし「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」に続く文章としてそれを書くと間違いです。
こういうところに、日ごろ高森顕徹会長の著作からの引用やビデオ法話の要約でしか文章を書いていない悪影響が出ています。前作に「「南無阿弥陀仏」という妙薬を創られた」とあるからといって、そのまま引用していいものではありません。

「「南無阿弥陀仏」という妙薬を創られました」という思い込み

先にも書きましたが、あくまで「薬に譬えた」ということであって、「阿弥陀仏南無阿弥陀仏を創られた」というのは間違いです。

しかし、私もそうでしたが親鸞会会員は高森顕徹会長からこのたとえ話を聞いているので、「阿弥陀仏」が「南無阿弥陀仏という何か」を与えて救うという図式で頭が固まっています。

ですから、以下のご文もその文脈で理解をしています。

いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。(顕浄土真実行文類 - WikiArc浄土真宗聖典註釈版P180)

「弥陀は名をもつて物を接したまふ」について、親鸞会会員は「阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏という薬を創られて、その薬によって私を救って下さる」と理解しています。しかし、それは間違いです。
名号によって救うとは、名号となって救うという意味です。先に書きましたが、阿弥陀仏南無阿弥陀仏は別のものではありません。南無阿弥陀仏となって私を救ってくださるので、「耳に聞き口に誦する」というのは、口で南無阿弥陀仏と称え耳で聞くという方法で「無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種と」なると言われています。

「そんなことで助かるか」と親鸞会会員は思いますが、それは南無阿弥陀仏について聞かされていないということもありますが、それを疑いといいます。
この口で南無阿弥陀仏と称えられる念仏が、私を救う阿弥陀仏の働きであり、また南無阿弥陀仏をそのように聞いて疑いない事を信心といいます。

南無阿弥陀仏が私を救って下さる

阿弥陀仏を離れた南無阿弥陀仏を頂く」のではありません。また「何かモノのような南無阿弥陀仏」を頂くのでもありません。法蔵菩薩の願行は、全て阿弥陀仏南無阿弥陀仏)となって下さっています。また、本願とは別に南無阿弥陀仏があるのでもありません。

誓願をはなれたる名号も候はず、名号をはなれたる誓願も候はず候ふ。(親鸞聖人御消息 - WikiArc・末灯鈔9・浄土真宗聖典註釈版P781)

ですから「南無阿弥陀仏の御心を聞く」のではなく、「南無阿弥陀仏を聞く」のです。「本願を聞く」とは「名号を聞く」ことです。
「聞其名号」とは「名号を聞く」のであって「名号の御心を聞く」のではありません。

南無阿弥陀仏を「ただ今助ける」との仰せでありお働きと聞いて疑いないのが信心です。


南無阿弥陀仏もその説明もない話はどれだけ真剣に聞いても、何も聞いていないのと同じです。日ごろの話が、形になったのがこの「人生の目的」です。


続き
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