親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「病気が全快したら無上の幸福になる」がおかしいと思う点(顕正新聞2022年4月15日号を読んで)

宗教法人浄土真宗親鸞会機関紙・顕正新聞2022年(令和4年)4月15日号を読みました。
以下、思った事を書きます。

顕正新聞2022年4月15日号3面降誕会案内

5月14日・15日に親鸞会館(富山県射水市)で開催される親鸞聖人降誕会の案内が1面でした。今年は、二千畳に人を集めての行事となるようです。新たな映像装置(8K以上表示可能)のお披露目の行事のようです。
ただし、これまでと違い最初から過去の高森会長のビデオの録画であることが演題から分かるようにしてあります。これまでは、「高森先生ご講演」となっており、「高森会長が話をするかも」という可能性を残していましたが、今回はそれもないようです。

論説「親鸞聖人の説かれた広くて深い仏語」について

全文は、画像を貼っておきますので読みたい方はそちらをご覧下さい。
今回は「信心」について書いてありますが、内容は「歎異抄ってなんだろう」(高森顕徹監修・高森光春・大見滋紀著)にそったものです。

今回の論説は要約すると以下のようになります。

  • 信心は名号と密接な関係がある。
  • 名号は「どんな人も必ず無上の幸福に救う」と誓われた阿弥陀仏がその約束を果たすために創られた「南無阿弥陀仏」のことである。
  • 全人類は「無明業障の病」という難病にかかっていると教えられている。
  • 死んだらどうなるか分からない、死後に暗い心の病である。
  • この難病を治す特効薬を頂いて全快したことを「信心」という。
  • 一息一息が、「人間に生まれてよかった」という生命の歓喜に輝くのだ。

(文章は論説より抜粋)

論説に書いてある事は、「歎異抄ってなんだろう」の要約です。その本にも、この論説にも「病気と薬と全快」の勘違いが書かれています。

どういうことかというと、上記の要約の言葉を使うと「病気が全快すると生命の歓喜に輝く」点です。
「無明業障の病」の定義については、今回は書きません。

たとえ話を教義そのものにすることによる間違い

阿弥陀仏の救いについて「病人・医者・薬・全快」に譬える事は、親鸞会が考え出したものではなく、以前からもあります。また、阿弥陀仏を医者に譬えたり、名号を薬に譬えることはお聖教にも出てくる表現です。

しかし、「譬えは一分をあらわす」であって、話の流れ上「ある一部分のこと」を分かりやすくするために使われるのが「譬え」です。「譬え話そのもの」が全てを表すようなことはありません。しかも、たとえ話でいうことと、教義は必ずしも一致しないにも関わらず、教義そのもののようにしているところから出てくる間違いがこの論説にも現れています。

「病気」と「全快」の関係

譬え話として出てくる「病気が薬によって全快した」ですが、一般論として「病気が治った」とは、「病気ではない状態になった」に過ぎません。
例えば、昨今のコロナ禍で感染した人が「コロナに感染しましたけど今は治りました」という場合、それは「コロナ感染していない状態に戻りました」と言っていることになります。「コロナ感染が治ったら生命の歓喜に輝きました」といったら、それは何かコロナ治療薬以外の何かによるものと普通は考えます。コロナ治療薬でコロナは治っても、他の病気がある人はその点は変わりません。糖尿病の人は糖尿病のままです。

ところが、「病気が全快する」の内容が、この論説では「生命の歓喜に輝く」となり譬え話を教義とするなら飛躍があります。
歎異抄ってなんだろう」には同じ内容をこのように書いています。

ひとたび「死後が暗い心の病」が完治すれば、永遠の闇より救われて苦悩渦巻く人生がそのまま無上の幸福と転じ、一切の苦悩が報われ、流した涙の1滴1滴が真珠の玉となって、その手に戻ってくるのです。
これみな南無阿弥陀仏の特効薬のはたらきなのです。(P142)

とにかく、病気が治れば苦しい人生が「無上の幸福」となり、あらゆる苦悩が報われていく人生に変わるということです。「人生大逆転」が起きるように書かれています。

病気が治るは、あくまで病気が治る「だけ」ですから、「病気が治る→→無上の幸福になる」は、論理の飛躍があります。こう書くと、「そんなことはない」と反論する親鸞会会員の方もあると思いますが、それならば譬え話を最初から教義の全てであるかのような本を書かなければよいのです。


「全快=信心」とするならば、「信心」について親鸞聖人がかかれていることは、「無上の幸福」と解釈できる表現はありません。

「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文 - WikiArc
浄土真宗聖典註釈版P678)

「信心とは何ですか」については、「(阿弥陀如来の御ちかひをききて疑ふこころのなき」ことだと言われています。阿弥陀仏の本願を聞いて疑い無いことを信心といわれるであって、本願を聞く事で私が「無上の幸福になった」ことを信心とはいいません。

譬え話の言葉を使うなら、病気はなおっても、私は私であることに変わりはありません。病気が全快した人で「あらゆる苦悩が報われていく人生」になった人がいれば、それは病気が治ったことに加えて何かの要素によってそうなります。   

信心とは、南無阿弥陀仏を聞いて疑いないことであって、私が浄土往生する身に救われるといっても、私そのものの変化を言われたものではありません。「阿弥陀仏が私を救う」との仰せを聞いていることと、私の心の変化を関係づけるのを「はからい」といいます。

まとめ 譬え話はあくまで譬えとして使うもの

譬え話は、あくまで「ある一分のこと」を表すためのものであって、全部をあらわすものではありません。ですから、いろんな方が書かれた譬え話はどこまで何を譬えたものかということを解説されています。それは、全てをたとえ話で表せない以上「ここはこの譬えでは言えない部分」ということを理解されているからです。

歎異抄ってなんだろう」は著者の考えは分かりませんが、全体の構成として「病人・医者・薬・全快」の譬えが最初にあって、そこに全てを表そうとという形になっています。この譬えで、浄土真宗がすべて表現できるわけではないので、最初からどこかに無理があります。


そこをあれこれ当てはめた結果、論理の飛躍があり、真宗の教えとも違う内容になっています。しかし、これに違和感がないまま出版し、論説にも書いているということは、そのようなものが親鸞聖人の教えだと理解しているということだと思います。

歎異抄の解説に力を入れる前に、お聖教をよく読まれたらいいと思います。

参照 論説の全文
顕正新聞2022年4月15日号3面論説