親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

顕正新聞論説「弥陀に照育されて進む聴聞の一本道」を読んで思った事(親鸞会機関紙2023年5月15日号)

親鸞会機関紙・顕正新聞2023年5月15日号を読みました。

親鸞会降誕会が近づいてきたので、降誕会に向けての記事と5月の連休中の各地での行事や研修が記事になっていました。

親鸞会顕正新聞2023年5月15日号1面より

今回は、論説について書きます。
タイトルは「弥陀に照育されて進む聴聞の一本道」となっています。
聴聞の一本道」と言いながら、親鸞会教義が色濃く反映された内容となっていました。

しかし、そんな凄い名号があっても、私たちが受け取らねば、本願の大智海に開入し、絶対の幸福に救われる事はない。
どうすれば名号を受け取らせ、人間に生まれてきた目的を果たさせられるか。(顕正新聞2023年5月15日号3面論説)

親鸞会では「名号」というのは、「受け取らねば」「受け取らせ」と書いてあるように何かの「モノ」のように考えています。
実際、私もそのように考えていたのでよく分かります。「今受け取っていない何かを受け取らねば助からない」と考えていました。

弥陀は一念で名号を与えようと、今も全身全霊、尽力なされている。その弥陀の御心を命がけで聞く人に、「すべては弥陀の独り働きだった」と、本願の大智海に開入させていただけるのである。(L)(顕正新聞2023年5月15日号3面論説)

この最後の文章も、最近の「歎異抄ってなんだろう」の影響か、阿弥陀仏という医者が、なんとか患者に名号という薬を飲ませるために一生懸命になっているという図を想像していることが分かります。

阿弥陀仏を医者に譬えたり、名号を薬に譬える話はあります。また、薬の効果で病気が治ることに譬えた話もあります。

「病人と医者と薬の例え話」は、薬の「薬効」の話はありますが、病人がどうやって薬を飲んだかということまであらわすものではありません。それは親鸞会でもよく話をしていた「譬えは一分をあらわす」というものです。


そこで、「どうやって飲ませるか」ということで、今回の論説では「遍照の光明」の話を持ってきます。しかし、その話と光明のお育ての話は結びつけるものではありません。なぜなら、阿弥陀仏の名号は、常に私に喚びかける「本願招喚の勅命」であると親鸞聖人は言われているからです。

ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。(顕浄土真実行文類 - WikiArc浄土真宗聖典註釈版P170)

光明といっても、目にも見えない、耳にも聞こえないものでしかないと親鸞会は思っています。しかし、そうではありません。阿弥陀仏の本願力は現に南無阿弥陀仏の声となって私の口から称えられる形となって顕れてくださっています。
よく言われる言い方で「名号は声になった光明、光明は声にならない間の名号」というのがあります。常に働くよびかけである南無阿弥陀仏があるからこそ、私の口から時々でも南無阿弥陀仏とでてくださるのです。また称えていない時でも、常によびかけられますからそのことを光明と言われます。

その弥陀の御心を命がけで聞く(顕正新聞2023年5月15日号3面論説)

というのは、命がけをするところが違っています。親鸞会が教える「三願転入の御心」を聞くのではなく、この南無阿弥陀仏・ただ今助けるを聞いて疑い無いのが信心です。

参照 論説全文

親鸞会機関紙・顕正新聞2023年5月15日号3面・論説