親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「徹底せよ『宗の極致』」(顕正新聞論説・公式サイト掲載)から見える教義の変更

顕正新聞2021年06月15日号掲載の論説が、公式サイトにも掲載されていました。
www.shinrankai.or.jp

以下、思ったことを書きます。

今回は「徹底せよ『宗の極致』」のタイトルでしたが、気になるところは以下の部分です。(全文を読みたい方はリンク先より)

仏教で「自力」とは、「阿弥陀仏のお約束(本願)を疑っている心」だけをいいます。弥陀はすべての人間の苦しみの根元を、「死んだらどうなるか分からぬ心」と見抜かれています。新型コロナは収束の兆しも見えますが、本当の恐怖は半年後、耐性を持つ変異株が現れ、気温の下がる秋だという指摘もあります。先が読めないと、今が不安で仕方がありません。

感染症を乗り越えても、最後は死なねばなりません。死後どうなるか、旅立つ先がハッキリしない人に、生命の歓喜はないのです。人生を苦に染める「後生暗い心」(死んだらどうなるか分からぬ心)を破り、必ず極楽往生できる大安心に救うと誓われたのが、弥陀の本願です。

この弥陀の誓願を「本当だろうか」と疑っている心だけを「自力」といいます。
親鸞会公式サイトより 太字は原文ママ

このように自力の定義についていろいろと書いてありますが、親鸞会にとって都合のいい情報だけをとりあげる内容だったので、自力について書きます。


自力の定義(浄土真宗辞典)

自力の定義については、浄土真宗辞典には以下のように書かれています。

じりき 自力
他力に対する語。自ら修めた身・口・意の善根によって迷いを離れようとすること。『一多文意』には「自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり」(浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P688)とある。→じりきしん(自力心)(浄土真宗辞典より)

じりきしん 自力心
行者のはからい。自力によって浄土に往生しようとすることで、これを親鸞阿弥陀仏の本願を疑う心とした。→じりき〔じりき〕、たりき〔他力〕(浄土真宗辞典より)

特に「自力によって浄土に往生しようとすること」を親鸞聖人は「阿弥陀仏の本願を疑う心とした」というのが大事なところです。


親鸞会の論説では

仏教で「自力」とは、「阿弥陀仏のお約束(本願)を疑っている心」だけをいいます。
(略)
この弥陀の誓願を「本当だろうか」と疑っている心だけを「自力」といいます。(同上)

疑っているというのは、どういうことか。「本当だろうか」と疑っている心とはどういうことかについては全く書かれていません。

「自力によって浄土に往生しようとすること」が「本願を疑う心」なのですが、それはそのまま親鸞会が会員に推奨していることなので、それについては全く言及しません。


論説に紹介された「改邪鈔」の「自力を捨てて他力に帰する」の「宗の極致」にしたがうとは、「あたかも親鸞会の活動が浄土往生の足しになるような教え」を捨てて、阿弥陀仏の仰せに従いなさいということです。

ついでにいうとそもそもですが「仏教で『自力』とは」と主語が大きくなっています。ここは百歩譲っても「浄土真宗で『自力』とは」とする文章です。


また、

弥陀はすべての人間の苦しみの根元を、「死んだらどうなるか分からぬ心」と見抜かれています。(親鸞会論説より)

というのも誤りです。

親鸞会が強調する「歎異抄」には、以下のように書かれています。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意(歎異抄第3条 浄土真宗聖典註釈版P834)

自力で生死をはなれることができない私を憐れに思われて阿弥陀仏は本願を建てられました。


「なぜ生きる」はなかったことにしつつある教義変更

また、以前「なぜ生きる」で、「苦悩の根元=無明の闇=死後どうなるか分からない心=疑情(自力)」としていたことはこの論説をみる限りはひっそりと変更したようです。
なぜ生きる

「苦悩の根元は、これひとつ」と断定される「疑情」とは、次章から詳しく述べる、
死後どうなるか分からない「無明の闇」のことである。(なぜ生きる2部(4)より)

(5) 無明の闇とは「死後どうなるか分からない心」
 ◎百パーセント墜ちる飛行機
  に乗るものはいないが、
  私たちはそんな飛行機に乗っている

無明の闇とは、「死んだらどうなるか分からない、死後に暗い心」をいう。
(なぜ生きる2部(5)より)

しかし、論説を読む限りは、「苦悩の根元=死んだらどうなるか分からない心」ではありますが、「苦悩の根元=本願を疑う心(自力)」とはなっていません。

元々のこの「なぜ生きる」の文章が、まともに読むといろいろと矛盾があるので仕方がないのですが、その誤りを親鸞会が認めてひっそりと「なぜ生きる」はなかったことにしていくようです。


今後は「歎異抄をひらく」と映画「歎異抄をひらく」だけが、親鸞会の教義の柱となっていくと思います。しかし、そうなったときにそれは「浄土真宗親鸞会」という看板にははなはだあわない内容を教義とする団体となります。看板か、教義とどちらかを改める時が来ていると思います。
歎異抄をひらく
歎異抄をひらく 完全版