親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会の「絶対の幸福」に真宗教義上、絶対になれないたった一つの理由(顕正新聞平成29年5月15日号論説より)

f:id:yamamoya:20170521053823p:plain親鸞会の機関紙である顕正新聞平成29年5月15日号を読みました。以下、思ったことを書きます。


今回は、特に論説の内容に関して書きたいことがあります。それは「絶対の幸福」について書いてあったからです。親鸞会に在籍された方ならご存知のとおりですが、親鸞会では「阿弥陀仏の救い=絶対の幸福」と定義しています。
「絶対の幸福」自体は、言葉としてかなり力を持っているので、親鸞会では新規勧誘に使っています。私もその言葉に魅力を感じて、親鸞会に入会しました。
しかし、親鸞会が標榜する「絶対の幸福」は、浄土真宗の信心と異なっているのが問題です。仮に「絶対の幸福」があるとしても、その身になれるであれば、私も特に意見することはありません。それでも、親鸞会がいう「絶対の幸福」は真宗の教義では絶対になれない幸福なのです。


今回は「親鸞会がいう絶対の幸福には、真宗の教えでは絶対になれない」ことについて書きます。
結論から言うと、そんなことを浄土真宗ではいわれないないからです。これがそのたった一つの理由です。


では、以下に「絶対の幸福」の定義を顕正新聞の論説から見ていきます。

親鸞会の「絶対の幸福」とはそもそもどんなものか?

親鸞会では「絶対の幸福=二種深信」と定義します。しかし、この等式が成立するには、親鸞会がいう「二種深信」の定義が真宗教義にあったものであるというのが大前提です。
しかし、親鸞会の「二種深信の定義」は真宗教義上は間違っています。以下、顕正新聞の論説から紹介します。

 そんな途方もない『絶対の幸福』を知ることは、生涯懸けての最大事である。その無上の幸せを、仏法の言葉で「二種深信」といわれている。「二種」とは、機(自己」と法(本願)の二つをいい、「深信」とは、ツユチリほどの疑いもなくなったことをいう。弥陀に救われた絶対の幸福になったとは、「機」と「法」の二つがハッキリすることなのである。
 まず「機」とは、罪悪にまみれた自己であり、自分は助かる縁なき極悪人だったと疑い晴れたことを『機の深信』という。
親鸞会機関紙 顕正新聞平成29年5月15日号論説)

まずここで、「罪悪にまみれた自己であり、自分は助かる縁なき極悪人だったと疑い晴れたこと」が機の深信だと言っていますが、ここがまず間違いです。

正確にいうと、どれだけ頑張っても自力で浄土へ往生できるようなものではないというのが、機の深信です。自分が『極悪人と疑い晴れる』ことではありません。

 聖人が『歎異抄』で、
『いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。』
(いずれの善行もできぬ親鸞は、地獄のほかに行き場がないのである)
親鸞会機関紙 顕正新聞平成29年5月15日号論説)

ここの歎異抄の現代語訳には、普通の人はかなり違和感を覚えると思います。
それは「いずれの行も及び難き身」が「いずれの善行もできぬ」としている点です。「及び難き」とは、ある状態まで到達できないというのが普通の読み方です。しかし、親鸞会では「いずれの行も及び難き身」を「善ができない極悪人」と言い換えるところが悪質です。本来は「浄土往生できるような善が満足にできない者」という意味ですから、大きく違います。

「堕ちるに間違いない』と「助かるに間違いない」が同時に疑い晴れ、死ぬまで相続するのだから、一切の人智を超えている。
親鸞会機関紙 顕正新聞平成29年5月15日号論説)

このあたりが、親鸞会の「絶対の幸福」定義の最も顕著にあらわれている表現です。
以前の親鸞会では、この表現は多用されていました。この言葉通りであるとするならば、普通の人にはまず理解できない話です。

しかし、これは本来の二種深信とは異なります。
本来は「自分の力ではとても浄土往生できない私であるから、阿弥陀仏の本願力によるしかない。阿弥陀仏の本願力にまかせれば、間違いなく浄土に往生する」というものです。こう聞けば、親鸞会会員の方も「人智を超えた」ものとは思えないのではないでしょうか。
言い換えれば、自分の力ではどうしてもできないことを、まかせよという方にまかせたから、必ず出来ると言っているようなものです。実際にその身になるかどうかは、置いとけば誰でも分かる話では無いでしょうか?

「不可思議・不可称・不可説」ではなく、「お前は何を言っているんだ?」が親鸞会の「絶対の幸福」

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この想像することも、言うことも、説くこともできない「不可思議・不可称・不可説」の世界を、どう説けば正しく伝わるか。釈迦はじめ七高僧親鸞覚如蓮如上人、歴代の善知識方のご苦労は、その一点に集中されていた。
親鸞会機関紙 顕正新聞平成29年5月15日号論説)

仏の智慧からすれば、そのすべてを凡夫で言うことはできないということであって、理屈が全く通じない話ではありません。
上記にあげた、二種深信の説明は「そういうものか」くらいには分かる人も多いのではないかと思います。それに対して、「堕ちるに間違いない』と「助かるに間違いない」が同時に疑い晴れると聞けば、そもそも何のことか分かりません。しかし、常人で理解得不能なことを分かるのが「善知識」(獲信した高森顕徹会長)という図式が親鸞会会員の共通認識です。この傾向は特にに長年親鸞会にいる人、とりわけ講師歴25年以上の講師に顕著です。また実際に私も、「お前は何を言っているんだ?」の常人では理解不能な体験をすることが信心決定だと思っていました。


しかし、実際は違います。真宗の信心とは、言い替えると「当たり前のこと」を「当たり前」と聞き入れることです。
繰り返しになりますが、自力で浄土往生ができない凡夫が、生死を離れるには「阿弥陀仏の本願力によるしかない」のは理屈としては分かる事と思います。しかし、「そうはいっても自分の力で少しはなにかしなければ」とひとえに本願力にまかせることができないのが、いわゆる「はからい」「疑い」「分別心」といわれるものです。


ここまで読まれた方には分かられると思いますが、真宗の信心とは「難信」ではあっても、「お前は何を言っているんだ?」ではないということです。仮に、親鸞会の言うところの「絶対の幸福」になろうとすれば、「罪悪にまみれた自己」に疑い晴れなければなりません。そうなると、聴聞を重ねると「罪悪にまみれた自己」がわかるということになります。そのため、親鸞会会員の多くは、「罪悪にまみれた自己」を知る為に富山の親鸞会館に足を運んでいることになります。しかし、考えて見れば、「自分の知らない悪に気がつく」という体験はおそらく多くの人は経験しないことです。そんなものは、時代劇の大岡越前でたまにあるくらいのものです。多くの凡夫(普通の人)は、自分の悪に気がつくということはありません。こう私が言うのは、親鸞会の「講師部合宿」で多くの講師が、「会の規約に反した(会の中では悪い)」ことを散々指摘されても、「申し訳ございませんでした」と心から反省した場面を見たことが殆どないことに起因します。
しかし、凡夫でも実生活で分かることはあります。それは「自分の力ではとてもできないことがある」と受け入れることです。人生でもそういうことは様々あります。殊に浄土往生に関しては、とても自力ではできるものではありません。阿弥陀仏は、自力ではとても浄土往生できないものだからこそ、私にまかせよと呼びかけられています。そのよびかけを、そのまま聞き入れるのが真宗の信心です。

繰り返しになりますが、理屈としては全く理解出来るのが真宗の信心です。それを受け入れるかどうかが、私の問題ということです。
親鸞会のいう「絶対の幸福」には、少なくとも「真宗の教え」ではなれません。仮になったという人がいれば、「親鸞会教義」の成就者ということになるでしょう。しかし、そんな人は高森顕徹会長以外にいないのが、今の親鸞会です。

参照 顕正新聞平成29年5月15日号論説全文

 釈迦一代の教えは、阿弥陀仏の本願(お約束)以外にない。本師本仏の阿弥陀如来の本願ただ一つ、弟子である釈迦が生涯、教えられたのが仏法である。その仏法を命の限り伝えられた親鸞聖人も、弥陀の本願宣布が全てだった。
 弥陀は「どんな人も必ず絶対の幸福に救う」と、命を懸けて誓われている。その誓願に救い摂られ、永久に変わらぬ絶対の幸福になることこそ、人生の目的なのである。
“絶対の幸福になるために生まれてきたのだから、早くその身になってくれよ” 
 この他、釈尊の勧めも、聖人の御勧化もなかった。釈迦の教法を書き残した七千余巻の経典は、「絶対の幸福」一つを解説されたものであり、聖人の主著『教行信証』六巻も、その讃嘆で一貫している。
 仏法は、全人類が求めてやまぬ「絶対の幸福」一つ説かれたものなのである。それはいかなる幸福か、釈尊の大雄弁は四十五年に及んだが、百千万劫でも説き尽くせないと告白されている。数多の著作を残された聖人も、とどのつまりは「不可説」と記され、説くことはできぬと嘆じられた。
 そんな途方もない『絶対の幸福』を知ることは、生涯懸けての最大事である。その無上の幸せを、仏法の言葉で「二種深信」といわれている。「二種」とは、機(自己」と法(本願)の二つをいい、「深信」とは、ツユチリほどの疑いもなくなったことをいう。弥陀に救われた絶対の幸福になったとは、「機」と「法」の二つがハッキリすることなのである。
 まず「機」とは、罪悪にまみれた自己であり、自分は助かる縁なき極悪人だったと疑い晴れたことを『機の深信』という。
 聖人が『歎異抄』で、
『いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。』
(いずれの善行もできぬ親鸞は、地獄のほかに行き場がないのである)
と仰ったのは、「機の深信」の告白である。
 次に「法」とは、そんな者を必ず助けると誓われた、阿弥陀仏の本願のことである。その弥陀の本願に疑い晴れたのが『法の深信』であり、それを『歎異抄』では、こう表白されている。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり」
(弥陀が五劫という長い間、熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、よくよく思い知らされれば、全く親鸞一人を助けんがためだった)
 この「機の深信」と「法の深信」を「機法二種深信」、略して「二種深信」というのである。
「堕ちるに間違いない』と「助かるに間違いない」が同時に疑い晴れ、死ぬまで相続するのだから、一切の人智を超えている。
 一端なりとも例えるなら、十トンの石を、それを浮かす力のある大船に乗せれば、十トンのまま向こう岸に渡せる。弥陀に救われても煩悩の巨魁で『堕ちるに間違いなし」の実態は少しも変わらないが、本館の大船に乗せられて、「必ず浄土へ往ける」のである。その大安心は、どんなことがあっても微動だにしない「絶対の幸福」であり、この世の喜びとは比較にならない。
 この想像することも、言うことも、説くこともできない「不可思議・不可称・不可説」の世界を、どう説けば正しく伝わるか。釈迦はじめ七高僧親鸞覚如蓮如上人、歴代の善知識方のご苦労は、その一点に集中されていた。
 どんな人も、親鸞聖人の教えを聞けば、必ず絶対の幸福になれる。そこまで聞き抜き、弥陀如来と師主知識の、広大なご恩徳に報いる身となろう。(P)
親鸞会機関紙 顕正新聞平成29年5月15日号論説)