親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「高森顕徹会長(宗教法人浄土真宗親鸞会)がたまにまともな真宗教義をいう問題」の背景について

顕正新聞平成29年6月1日号論説を読みました。以下、思ったことを書きます。
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(略)
阿弥陀仏は、大悲の願船を見る目もなく、船長の声を聞く耳も持たぬ逆謗・闡提の者を目当てに、「必ず乗せて絶対の幸福に救い摂り、極楽浄土へ渡す」と誓われている。大悲の願船は私目掛けて突っ込んでくるのだ。そして必ず、苦しみの海から引き上げ乗せて下されるのである。
修行も学問も要らない。「弥陀の願心に疑心あることなし」と聞く一つである。
大悲の願船に乗ずれば、光明の広海に浮かぶ人生が開かれ、広大な仏恩を知らされるから、報謝の念仏称える身に、早くなりなさいよと、蓮如上人は仰せなのである。(顕正新聞平成29年6月1日号論説より)

阿弥陀仏が「絶対の幸福に救い摂り」といっている部分は、相変わらず親鸞会用語の定義が曖昧なのでよく分かりません。しかし、どうも「絶対の幸福に救い摂り、極楽浄土へ渡す」という文脈からすると、親鸞会の定義する「絶対の幸福=現生正定聚」のようです。
「修行も学問も要らない。「弥陀の願心に疑心あることなし」と聞く一つである。」とここだけ読むと、「親鸞会もまともなことを言っているではないか」と思われるかもしれません。しかし、このようなことを一貫していわないところが、親鸞会の特徴です。


表題について結論を先に書くと、高森会長が会員をつなぎ止めるための技術としかいいようがありません。


私が在籍していたころでも、似たようなことは何度もありました。
一例を揚げると、「聞く一つの救いだけれど、聞いておれば助かると思うのは間違いだ。」
阿弥陀仏の救いは無条件だが、無条件が無条件と知らされるまで真剣にならねばならない」
「他力が他力と知らされるまで、自力一杯求めねばならない」
などです。
こういうのをダブルバインドといいます。

ダブル−バインド
〖名〗(二重拘束の意)相反する二つのメッセージを同時に受けて、即座に反応を求められる場合のような身動きのとれない状態。たとえば、母親が子供に対して口では「愛してる」と言いながら嫌悪の表情を示した場合の、子供のどちらを信じていいのかわからない精神状態をいう。文化人類学者のグレゴリー=ベートソンが1950年代に提示した概念。(小学館 精選版日本国語辞典)

考えて見ると、親鸞会在籍時の高森会長の「教え」は、このダブルバインドの連続でした。代表的なものが「宿善」です。「宿善がなければ救われないから、真剣に求めよ」と聞かされて「聴聞、勤行、お布施」に邁進すると、「宿善が積み重なって助かると思うのは間違い」と来ます。
また「真剣に聞け、正座して聞け、正座せずに聞いて救われた人はいない」と聞いて、一日正座をして真剣に聞いていると「真剣に聞いたら助かると思うのは自惚れだ」と来ます。
まとめて言えば、右に行けと言われていたことに従っていると、ある日には左に行けと言われます。それを一年のうちに何回も繰り返しているうちに、親鸞会会員の一年間は過ぎていきます。いま振り返れば、恒例行事のようなものです。


しかし、当の会員にとってはたまったものではありません。なにせ「500年に一度の善知識が仰ること」ですから、間違いがあるはずがありません。どう考えても、以前と反対の話を聞かされた時が会員を続けるかどうかのメンタルテストになります。以前の私はこう考えていました。

「高森会長は私の思い違いを正す為に、敢えて反対のことを言われているのだ。高森会長の真意を聞き間違えた私が悪いのだ」としていました。


しかし、考えて見るとおかしなことです。なぜなら、親鸞会は一応「浄土真宗」を看板に掲げている団体ですから、その教義は「浄土真宗」から逸脱しては、看板倒れに成ってしまいます。にもかかわらず、高森会長の話が、定期的に右に行ったり左に行ったりするのはなぜでしょうか?
可能性としては二つしかありません。

高森会長の話が時々反対のことをいう理由

  1. 浄土真宗の教義はそのように「右へ行け」「左に行け」というように矛盾したものである。
  2. 高森会長が日ごろ言っている教義が真宗教義と真反対である。そのためたまに、まともに真宗教義の話をすると、矛盾していると感じる。


ここまで読まれた会員の方に正解をいいます。答えは「2」です。
少しでもネットで親鸞会教義を調べた方なら分かると思いますが、浄土真宗では「善をしたら救いが早くなる。救いの足しになる。獲信と良い関係がある」というものはありません。にも関わらず、明文化するかどうかはさておき、活動の現場で会員が感じるのは「善はしないよりした方が早く救われる」ということです。それに対して親鸞聖人も蓮如上人も、「善で救われるとか、救いが早くなることはない」とハッキリ言われています。
ですから、日ごろ高森会長がいうところの「これが本当の親鸞聖人の教え」そのものが、「親鸞聖人の教えの真逆」であり。たまにいう「日ごろと違うこと」こそが、「本当の浄土真宗」です。
どうか、会員の方は、高森会長がたまにする変わった話こそ真宗の教えだと知って下さい。そのたまにしかしない真宗の教えを聞くことの大いなる労力の無駄に気づいて下さい。
親鸞会では「有り難い話」は、親鸞会以外ではいつもされている話です。

高森会長がたまにまともなことをいうのは、たまにまともなことを言って会員に「高森会長の言っていることは真宗である」と信じ込ませるためのボーズに過ぎません。私が会員であったときを振り返れば、まともな真宗教義の話をするのは、年間数回あったかどうかです。