親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

映画「なぜ生きる」の「苦しみの人生がガラリと変わる」について質問しても意味がない理由 (2017年11月12日高森顕徹会長座談会より)

2017年11月12日(日)は、親鸞会館で高森会長のアニメ座談会が行われました。高森会長の体調から、以前の法話形式から座談会形式になったそうです。法話形式というのは、高森会長が親鸞会教誨服を来て一つの演題について朝昼と基本的に立って話をするというものです。それに対して座談会形式というのは、ワイシャツにジャケット着用で演題中央に机を置き、イスに座って話をするというものです。


アニメ座談会というのは、アニメ映画「なぜ生きる」についての質問に答えるというものです。その質問は、アニメ映画のセリフに限定されています。
f:id:yamamoya:20171115194506p:plain
映画「なぜ生きる」オフィシャルサイトより)


今回の質問は、以下のものでした。

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか(42ページ)」

ここでページ数が出てきますが、これはアニメ映画「なぜ生きる」のシナリオブックのものです。アニメ映画が完成してより、親鸞会ではこのシナリオブックがお聖教のように扱われ、熱心な会員はそれにあちこち線を引いたり沢山の書き込みをしています。


そこで、現在親鸞会会員の方ならよく御存知のことですが、映画「なぜ生きる」についての質問は、シナリオのなかの3箇所から4箇所の部分だけに質問を何度も繰り返して現在に至ります。今回の質問部分も、すでに何回も座談会の質問で出ている内容です。ここまで読まれた親鸞会会員でない方は、「なぜ同じ箇所を何度も質問をするのだろうか?」「質問について高森顕徹会長が回答を十分にしていないからではないか?」と思われることでしょう。それは御尤もな感想です。


例えば、国会で同じ疑惑について何度も野党から質問が繰り返されていますが、なぜそうなるかと言えば、与党が質問に答えていないからです。もし回答をしていれば、それを踏まえて「ではさきほどの答弁でいわれたことについて、○○はどういうことでしょうか?」と質問が変わっていきます。


それと同じことが、高森顕徹会長のアニメ座談会では繰り返されています。何度も同じ質問が出ているのは、それまでの質問に会員が納得をしていない証拠です。もちろん熱心な会員は、質問に対する高森顕徹会長の回答について分からないことがあっても、「自分の聞きかたが悪い」と思う人もあると思います。しかし、それは大きな間違いです。会員によっては、九州や北海道から富山に来て高森会長の話を聞こうという気持ちの人に「聞きかたが悪い」ということは考えられません。単純に高森会長が回答をしていないだけです。


しかし、今回の質問に関しては、高森顕徹会長の回答にも問題は多いですが、そもそもの話としてこの質問が浄土真宗の質問にならないというのが大事なところです。


といいますのは、会員の方は映画「なぜ生きる」の内容が、浄土真宗の教えと違うということは夢にも思っていない前提で質問を出しておられます。ところが、私だけでなく親鸞会以外の人から見るとこの映画「なぜ生きる」の内容は浄土真宗の教えと異なるところが多くあります。ですから、今回の座談会の質問も正しくは以下のようになります。

「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わる」とは浄土真宗の教えと異なるのではないでしょうか?

この「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わる」が、間違いだという出発点に立たないと、これが正しいという前提での高森顕徹会長の話を何回聞いても納得できるはずはありません。なぜなら、「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わる」ということは、常々高森顕徹会長が言っている「正しい親鸞聖人のみ教え」ではないからです。


これについて、少し詳しく書いていきます。
まず「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わる」とは、どういうことだと親鸞会会員の方は理解しておられるでしょうか?


少しずつ言葉を置き換えて書いて見ます。
阿弥陀仏に救われると、私の苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わる」
とは、どういうことでしょうか?


ここで、苦しみの人生の苦しみとは何でしょうか?人間関係の苦しみであったり、病気の苦しみ、経済的な苦しみなどなどが、日常の実感ではないでしょうか?ここで「無明の闇」とか「後生くらい心」と言い出す親鸞会会員の方があるかも知れませんが、よくよく考えて見て下さい。実感として「それ」で苦しみの人生となってるでしょうか?むしろ、それが自覚できないと親鸞会では教えているのではないでしょうか?
そこで、実感としていろいろある「苦しみの人生」が「幸せな人生にガラリと変わる」と聞くと、前述した「人間関係の苦しみ」「病気の苦しみ」「経済的な苦しみ」がなくなって「人間関係がよくなる」「病気が治る」「経済的に恵まれる」となります。


ですから、「阿弥陀仏に救われると、私の苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わる」とは、言い替えると
阿弥陀仏に救われると、私の人間関係の苦しみは、ガラリとよくなる」
阿弥陀仏に救われると、私の病気は、ガラリと治る」
阿弥陀仏に救われると、私の経済的な苦しみは、経済的に恵まれるようにガラリと変わる」と言っているに過ぎません。


仏教の言葉で言い替えるなら
阿弥陀仏に救われると、煩悩で苦しむ人生は、煩悩のない人生にガラリと変わる」
と言っているのと同じです。


こう書き替えるとさすがに親鸞会会員の方も「それはおかしい」「それは親鸞聖人の教えと違う」と分かられるのではないでしょうか?しかし、アニメ映画「なぜ生きる」のセリフはそういうことを言っているのです。


阿弥陀仏に救われても煩悩は変わりません。煩悩具足の凡夫は死ぬまで変わりません。そこは、親鸞会会員の方でも

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず(一念多念証文 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P693)

https://goo.gl/AvmWj5

という親鸞聖人のお言葉は聞いた事があると思いますが、その通りなのです。


言い換えれば、死ぬまで「人間関係の苦しみ」や「病の苦しみ」「経済的な苦しみ」は、いろいろあっても続きます。少なくとも阿弥陀仏に救われた刹那に「ガラリと変わる」ことはありません。何も変わりません。
その変わらないものを、あたかも「ガラリと変わる」かのようにいくらこじつけた所で、それが真実でない以上、親鸞会会員が納得しないのは当然のことです。


過去の私もそうでしたが、「後生暗い心が明るくなる」とか「地獄一定が往生一定に」などと言葉は聞いていても、私が思い描いた「阿弥陀仏に救われた世界」は、映画「なぜ生きる」のセリフのように「あらゆる苦しみがガラリとなくってしまう世界」としか思っていませんでした。考えていることは、親鸞会会員の人が忌み嫌っている現世利益宗教と何も変わりません。

(103)
外道・梵士・尼乾志に
 こころはかはらぬものとして
 如来の法衣をつねにきて
 一切鬼神をあがむめり
正像末和讃103 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P618)

https://goo.gl/hG9nnW

こう書くと「不可称不可説不可思議の世界なんだから凡夫にわかるはずがない」という会員の方もあると思います。しかし、心で思っている「絶対の幸福」は、「ものすごい現世利益」のように考えてはいないでしょうか?


親鸞聖人がいわれるように煩悩具足の私というのは「臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」であります。苦しみの人生は、ある意味何も変わりません。その変わらないままが、往生浄土への歩む人生に転換させらていたというのが浄土真宗の救いです。ですから「阿弥陀仏に救われると、私の苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わる」が意味するところの、「煩悩がなくなる」「苦しみが無くなる」といったようなことはありませんので、それについて高森顕徹会長に「浄土真宗の教えとしての回答」を質問しても、仮に100回座談会で聞いても答えは出てきません。なぜなら、そんなものは浄土真宗の救いにないからです。


浄土真宗の教えにないこと」を会員が質問し、高森顕徹会長が「浄土真宗の教えにあるかのように長い言い訳(詭弁)」をしているのですから、「浄土真宗の教えについての座談会」としては全く意味をなしません。


もし機会があれば、アニメ座談会で、前述したように「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは浄土真宗の教えと異なるのではないでしょうか?」と質問をしてみて下さい。きっと、みなさんの誤解も解けると思います。