親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「親鸞会の宿善」の現在地(2023年度版)(「なぜ生きる」著者・伊藤健太郎教学部長の解説)

shinrankaidakkai.hatenablog.com
前回の記事の続きです。

2023年9月から親鸞会では、高森会長の過去の法話ビデオのネット配信を各地の会館限定として、基本的に富山県親鸞会館に来て聞く事に方針を変えました。

これに対して、「なぜそんなことをするのか」と疑問に思う会員も多いです。それに対して「なぜ親鸞会館に来なければならないのか」の回答が「楽な聞法はそれだけの宿善にしかならない*1」からというものでした。



そこで、親鸞会における「宿善」とは一体どういう定義なのかを、以下のYoutube動画からみてみます。


www.youtube.com
浄土真宗講座(上級B)【16〜18】五重の義(1)宿善(2)善知識」
これは、親鸞会で教学部門の責任者であり「なぜ生きる」の著書でもある伊藤健太郎氏の「仏教哲学で生きる意味を知る」チャンネルです。ここに出てくる宿善の定義が、公式な親鸞会の見解と考えていいいでしょう。


親鸞会版「宿善」の定義・「信心獲得するまでに私がする善」

5:11〜
(宿世とは)広い意味で信心獲得するまでの一切の過去を含みます。ですから、信心獲得するまでの一切の過去において私たちのやってきた善を宿善というのです。
浄土真宗講座(上級B)【16~18】五重の義(1)宿善(2)善知識 - YouTube

まず最初にこのように定義をします。
高森顕徹会長が事実上不在の親鸞会では、親鸞会教学聖典に記載されたもの以外の定義はしない傾向がより強くなってきました。

この宿善は、「信心獲得するまでの一切の過去において私のやる善」ですから、この動画で常に使われている以下の図と組み合わせて説明をされています。

6:18〜
十九願の導きによって、一生懸命良い事に努めるのですが、人間のやる善は毒の雑じった善でこんな善では浄土へは往けないと知らされると、今度は南無阿弥陀仏に目が向いて念仏を称えて浄土に往こうと言う心になります。それが二十願に導かれている時です。
そして最後、自分のやった善でも、称えた念仏でも往生する事はできなかった、自分は地獄より行き場のないものであったと知らされた時が、阿弥陀仏のお力によって他力の信心を獲得した時なのです。

浄土真宗講座(上級B)【16~18】五重の義(1)宿善(2)善知識 - YouTube

説明を聞いていると、少なくとも二十願に入るまでは「善をしなければそこまで進めない」とも聞こえますし、信心獲得までは善が必要ともとれるものとなっています。

しかし、こう聞くと「善をして助かるのか?」という疑問は当然起きてきます。それに対しては「善をして助かると言う事は浄土真宗では言わない」と話をします。


宿善は「土台」

それに対する回答が以下のものです。

8:40〜
宿善というのは家を建てる時で言えば土台、この宿善がなければ後の四つはそろわないのです。(略)五つのものが揃わなければ信心獲得は出来ません。
浄土真宗講座(上級B)【16~18】五重の義(1)宿善(2)善知識 - YouTube

ここでは、家に例えて土台がないと何も始まらないという説明をします。しかし、普通に考えれば土台が出来た上で柱を立てているような時に「土台をきちんと作れ」というのは理屈に合いません。また、この土台の説明で言えば、次の善知識にあって法を聞こうという気になった人には、宿善というのは「これがないと助からないぞ」とことさら善をする事を推進する意味がありません。


宿善は「土台」から「これ一つで決まるもの」へと変化

13:26〜
信心獲得出来るかどうか、それは宿善があるかないか、これ一つで決まるのだと教えられています。
浄土真宗講座(上級B)【16~18】五重の義(1)宿善(2)善知識 - YouTube

ここで、御文章の根拠を出して、「宿善が有るか無いか、これ一つで決まる」と、宿善(信心獲得するまでに私がやる善)の立ち位置が、「土台」からさらに「これ一つで決まるもの」へと変化します。

しかし、この御文章はいつもの切り取り根拠なので、その直後も含めて読むとこの親鸞会の説明と異なる文章だという事が分かります。特に「宿善」に関係する言葉を赤字にしてみました。

されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。
しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)と仰せられたり。(御文章四帖目一通・浄土真宗聖典註釈版P1162)

親鸞聖人の「遇獲信心遠慶宿縁」(たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ)のお言葉と「宿因」「宿善」と並べることで、この三つの言葉は同じ意味である事を示されています。


浄土真宗辞典では以下のように書かれています。

しゅくえん 宿縁

  1. 過去世につくった因縁、前世に結んだ因縁の事。
  2. 阿弥陀仏が遠くはてしない昔から、衆生を救済しようと誓願をたてた縁のこと、「総序」には「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(註132)とある。

ちなみに「宿因」については、以下の様に書かれています。

しゅくいん 宿因

  1. 過去世につくった業因、前世に結んだ因縁のこと。→しゅくごう(宿業)
  2. 仏道に入る宿世のよき因縁。『御文章』4帖目1通には「念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり」(註1162)とある。

ですから、ここでの「宿善」は、浄土真宗辞典にあるように

しゅくぜん 宿善

  1. 過去世に積んだ善根のこと。
  2. 宿世の善因縁の意で、獲信のための善き因縁のこと。『御一代記聞書』第233条に「宿善めだたしといふはわろし。御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふよし仰せられ候ふ」(註1307)とあるように、浄土真宗では、信心を得る縁となる阿弥陀仏の調育のはたらきであるとする。

「信心を得る縁となる阿弥陀仏の調育のはたらき」と読むのが普通です。


阿弥陀仏の調育の働きは「私が親鸞会館へ行って正座する事」で強くなったりするものではありません。

今回のまとめ

開始13分くらいでも 既に「宿善」の定義が色々とぶれているのが分かると思います。
信心獲得までの自分のやる善であると話したかと思えば、自力無功だから自力の善では助からないといいます。
その後はこの善(宿善)が土台だから必要だと強調しますが、土台なら善知識にあって法を聞く人にはあまり関係ない話となり、親鸞会の図でいう十九願の所まで来た人には関係ない話となります。
宿善がなければ、善知識に会えないというのならば、すでに善知識(高森顕徹会長)に会っている筈の親鸞会会員は何の為に宿善を頑張って厚くしようとするのかが分かりません。

そして、「宿善これ一つで信心獲得出来るかどうかが決まる」と出した御文章の根拠は、「宿善」「宿因」「宿縁」ともに「信心を得る縁となる阿弥陀仏の調育のはたらき」だとされたものです。親鸞会の定義する「信心獲得までの私のやる善」の根拠とはなりません。

長くなったので、動画の14分以降の部分は次の記事に書きます。