親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会の宿善の現在地4:「宿善が無ければ助からない」のは「宿善往生だから」なのか「善知識にあえないから」なのか

shinrankaidakkai.hatenablog.com
前回の記事の続きです。

親鸞会が現在最も強調しているのが「宿善」です。
この記事では、以下のYoutubeを参照しながら親鸞会が宿善についてどう話をしているかについて書いてきました。
youtu.be
(仏教哲学で生きる意味を知る・親鸞会教学部長伊藤健太郎講師・浄土真宗講座(上級B)【16~18】五重の義(1)宿善(2)善知識)

目次

「宿善」は助かる為の因なのかについて

この動画で親鸞会の主張を聞いていると二つに分かれている事がわかります。

  1. 宿善が無ければ助からない
  2. 宿善が無ければ善知識に会えない


(1)「宿善が無ければ助からない」については、以下のように言っています。

13:18〜
信心獲得できるかどうか、宿善があるかないかこれ一つで決まるのだと教えられています。
浄土真宗講座(上級B)【16~18】五重の義(1)宿善(2)善知識 - YouTube

(2) 「宿善が無ければ善知識に会えない」については、以下のように言っています。

52:41〜
そのあうことの難しい。会いがたい中にも会いがたい善知識にもし会う事が出来たとすれば、その人が大変宿善の厚い人だからなのです。この善知識にはそう簡単に会えるものではありません。余程宿善のある人でないとお会いする事は出来ないのです。
浄土真宗講座(上級B)【16~18】五重の義(1)宿善(2)善知識 - YouTube

親鸞会では主に(1)「宿善が無ければ助からない」を強調して、会員に「宿善が厚くなるには富山の親鸞会館に行きましょう」「宿善が大事ですからお布施を精いっぱい頑張らせて頂きましょう」と勧めています。
実際に勧められた会員も「助かる為にはまずは宿善だ」「宿善が厚くなるように頑張ろう」と思って活動をしています。しかし、それを突き詰めれば「宿善で助かる」という話になります。

「五重の義」においての「宿善」とは

親鸞会で「宿善」と言うことが話題になるのは、御文章の五重の義が元になります。その為、この動画もあくまで「五重の義」についての話です。
この動画でも、最初の方に五重の義についてこのように言っています。

3:30頃
五つのものが揃わないと往生は決して出来ませんよと蓮如上人は教えられているのです。
浄土真宗講座(上級B)【16~18】五重の義(1)宿善(2)善知識 - YouTube

あくまでも、宿善は五重の義の一つとして言われるもので、「宿善これ一つ」で助かると言われたものではありません。一応この動画でも最初に「五つのものが揃わなければ」とは言っていますが、親鸞会の活動の現場では「宿善。これが一番肝要」となっています。

唯善の「宿善往生ではないか」批判に対する覚恵(覚如上人の父)の反論

「宿善」の言葉を使われたのは覚如上人です。親鸞聖人の書かれたものに「宿善」の言葉はありません。覚如上人がなぜ「宿善」の語を使われたのかについては、色々説はあります。
ただ「宿善」という言葉を使うと、当然「それは宿善往生ではないか?」という疑問が起きます。
それについて唯善とのやり取りが書かれたものが最須敬重繪詞です。

この最須敬重繪詞は、覚如上人の門弟・乗専の書いた覚如上人の伝記です。乗専は覚如上人口述の「口伝鈔」「改邪鈔」を筆記された方でもあります。
以下の箇所は、唯善から宿善の大事さを強調する覚恵師(覚如上人の父)に対して「さては念佛往生にはあらで宿善往生にこそ」(そんなに宿善が大事だと言うのならば、念仏往生ではなく宿善往生ということになるではないか)と投げ掛けました。

それに対して覚恵は以下のように反論しています。「尊老」とは覚恵のことです。

尊老、又宿善の當體をもて往生すといふ事は、始より申さねば宿善往生とかけりおほせらるゝにをよばず。往生の因とは宿世の善もならず今生の善もならず、敎法にあふことは宿善の縁にこたえ、往生をうることは本願の力による。聖人まさしく「遇獲行信遠慶宿縁」(總序)と釋し給うへは、餘流をくみながら相論にをよびがたき歟と云々。其後兩方問答をやめ、たがひに言說なかりけり。(最須敬重繪詞巻五・第十八段・浄土真宗聖典全書四・P454)http://j-soken.jp/files/zensho_db/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%B7%BB/415%E6%9C%80%E9%A0%88%E6%95%AC%E9%87%8D%E7%B5%B5%E8%A9%9E.txt

私が往生する因は「宿世の善もならず今生の善もならず」です。過去世において行った善も、今生において行った善も往生のタネとはなりません。
では宿善とは何なのかと言えば「敎法にあふことは宿善の縁にこたえ」と言われています。教えに会う事は、宿善によるのだという事です。
では、往生の因は何かといえば「往生をうることは本願の力による」と言われています。

このように覚恵が反論したところで、問答は終わったと書かれています。

「敎法にあふことは宿善の縁」「往生の因とは宿世の善もならず今生の善もならず」

ここで分かる事は、宿善の言葉を使い始められた覚如上人の伝記にも「宿善で助かる」とは一言も言われていないという事です。
宿善について言われているのは、「知識にあふことは宿善開發のゆへなり」とあるように、善知識に会うかどうかについての話です。その点では、(2) 「宿善が無ければ善知識に会えない」はその通りです。

ですが、善知識にあっている人に更に宿善を求めよと強調される事はありません。私がする善は「往生の因とは宿世の善もならず今生の善もならず」と言われている通りです。

親鸞会会員が宿善を求め続けるのは、善知識に会っていないから

その意味で、親鸞会が会員に「宿善が厚くなるように」と強調するのは、まだ善知識に会えてないからと言うことになります。
すでに善知識にあっているというのであれば、その人から話を聞けばよいということになります。親鸞会がよく使う「聴聞に極まる」ので有るのならば、そこに「宿善」の語を入れるのは間違いです。
富山まで足を運んで正座するのが一番の宿善であると強調するのは、未だ出会えていない「善知識」に親鸞会会員がいつか出あうためと言うことになります。
会員に「高森顕徹会長の話を聞いて宿善厚くせよ、そうしないと助からない」と言っているのは、「宿善を厚くしないと『善知識』に会えないから助からない」と言っているのと同じです。
ここまで読まれた会員の方は高森顕徹会長が本当の善知識なのかどうか、一度前提を疑って考えて見て下さい。

最後に。仮に「高森顕徹会長の法話聴聞」が一番の宿善になるとしても

最後に、仮に親鸞会が主張するように「高森顕徹会長の法話聴聞する」ことが一番の宿善になるとして、また、宿善が無ければ救われないとして、今後親鸞会会員が救われることが有るのでしょうか?
特に会員歴30年以上の会員は、その高森顕徹会長の法話をそれだけ長く直接聴聞してきました。しかし、数年前から高森顕徹会長の直接の法話はなく、過去のビデオ聴聞が繰り返されるばかりです。
以前は、ビデオ聴聞は直接の聴聞に劣ると断言し、会員を高森顕徹会長の法座へと誘っていました。

親鸞会理論でいえば、「宿善がより厚くなる度合い」に関しては、「直接の聴聞」>>>「ビデオ聴聞」という関係になります。
30年以上直接聞いた「宿善」では助からず、今後直接の聴聞より劣るとされてきた「ビデオ聴聞」で、どれだけ「宿善が厚くなる」のでしょうか?
親鸞会理論にのっとったとしても、今の延長上に自分の救いがあるでしょうか?
それとも、今後誰がなるか分からない新会長は皆さんが今まで聞いてきた高森顕徹会長以上の話が出来るのでしょうか?

私を救うのは私の宿善でも善知識でもありません。南無阿弥陀仏とそのお働きのみです。「何が」私を救ってくださるのかを今一度考えて見て下さい。

参照:最須敬重繪詞巻五・第十八段

読みやすくする為に、唯善の発言と覚恵の発言に色をつけました。
第十八段
大納言阿闍梨弘雅と云人あり。俗姓は小野宮少將入道具親朝臣の子息に、始は少將阿闍梨[失名]と申ける人の世を遁て禪念房となん號せし人の眞弟なり。仁和寺鳴瀧相應院前大僧正坊[守助]の弟子にて、御室へも參仕の號を懸られけり。むねとは廣澤の淸流を酌て眞言の敎門をうかゞひ、兼ては修驗の一道に步て山林の斗藪をたしなまれけるが、後にはこれも隱遁して河和田の唯圓大德をもて師範とし、聖人の門葉と成て唯善房とぞ號せられける。とりわき一宗を習學の事などはなかりしかども、眞俗に亘てつたなからず、萬事につけて才學を立られける人なり。覺惠尊宿には一腹の舍弟にて坐し給ければ、大和尙位には叔姪の中にて、居を南北にならべ、交を朝夕にむすばれけるが、常には法門の談話ありけり。或時はかりなき諍論あり。尊老人に對して法文を演說し給ことありける詞に、いま聞法能行の身となれるは善知識にあへる故なり。知識にあふことは宿善開發のゆへなり。されば聞て信行せん人は宿縁を悅べしとのたまひければ、唯善大德難ぜられていはく、念佛往生の義理またく宿善の有無をいふべからず。すでに所被の機をいふに十方衆生なり、その中に善惡の二機を攝す。善人にはまことに過現の善根もあるべし、惡人には二世一毫の善種さらになき者もあるべし。今の義ならば是等の類は本願にもれなんと申されけり。尊老の給けるは、頓敎一乘の極談、凡惡濟度の宗旨を立する時、たゞをしへて念佛を行ぜしむるにあり。その出離の機をさだめんにをいて、とをく宿善をたづぬべからざる事は然なり。他師下三品の機を判ずとして、始學大乘の人なりといへるを、宗家破して「遇惡の凡夫」(玄義分)と釋せらるゝは此意なり。されば『大經』(卷下)の文に「雖一世勤苦須臾之間、後生無量壽佛國」といへる、一世の修行に依て九品の往生をうることは其義勿論なり、あらそふ所にあらず。たゞし退てこれをいふに、往生をうることは念佛の益なり、敎法にあふことは宿善の功なり。もし宿善にあらずして直に法にあふといはゞ、なんぞ諸佛の神力一時に衆生をつくし、如來の大悲一念に菩提をえしめざる。しかるに佛敎にあふに遲速あり。解脫をうるに前後あるは、宿善の厚薄にこたへ修行の強弱による。このゆへに『經』(大經*卷下)には、「若人無善本不得聞此經」とも、「宿世見諸佛樂聽如是敎」ともとけり。就中、和尙『淸淨覺經』の文を引て、信不の得失をあかしたまへり。これすなはち不信の者はこの說を聞て慚愧をいたし、自心をはげまさんがため、もとより信順のものはいよいよ堅持して、怯弱のこゝろをのぞかんがためなり。佛說すでに炳焉なり、いかでか宿善なしといはんと。唯公、又さては念佛往生にはあらで宿善往生にこそと申されければ、尊老、又宿善の當體をもて往生すといふ事は、始より申さねば宿善往生とかけりおほせらるゝにをよばず。往生の因とは宿世の善もならず今生の善もならず、敎法にあふことは宿善の縁にこたえ、往生をうることは本願の力による。聖人まさしく「遇獲行信遠慶宿縁」(總序)と釋し給うへは、餘流をくみながら相論にをよびがたき歟と云々。其後兩方問答をやめ、たがひに言說なかりけり。五條大納言[邦綱卿]の遺孫にて東海の州吏をへたる一人の雲客あり。北白川院に侍て仙院の事をばよろづにつけて申沙汰せられけるが、出家發心して伊勢入道行願房とぞ申ける。俗體の時も才幹和漢にわたり、管絃の道なども人にしられたりしが、隱遁の後は法談の處々にちかづきのぞみて、聖道・淨土の法文に聽聞の耳をそばだて、諸宗久學の碩德に難答の詞をも通して、博覽内外典をかね、智辨隨分の譽ありし人なり。かの人今の諍論を後に聞て、上綱の述義は佛敎の正旨にかなひ、學生の智解ときこえたり。荒涼の狂言なれども、唯公の義勢は入道法門なりとぞ申されける。入道法門とは、いかなる事にか慥に相傳の旨はなくて、たゞ暗推の義なる由を申されけるにや。