親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会の宿善の現在地3・親鸞会の「宿善」は教学聖典の「問い」によるもの

shinrankaidakkai.hatenablog.com
前回の記事の続きです。

親鸞会の「宿善」について、このブログで書こうとすると中々難しい所が有ります。その一番の原因は、親鸞会の「宿善」の定義が、浄土真宗辞典の「宿善」と異なるからです。
そこで今回は、改めて親鸞会会員の頭の中にある「宿善」の意味を親鸞会発行の教学聖典からみてみます。

目次

親鸞会会員の教義理解の元「教学聖典

では、親鸞会会員の思い描く「宿善」とはどういうものなのでしょうか?それは親鸞会発行の教学聖典によるものです。

親鸞会発行・教学聖典表紙
熱心な親鸞会会員はこの教学聖典を暗記しています。1冊につき、50個の問いと答えが収録してあり、現在1号から9号までの9冊出ています。1号ごとに、テキストそのままの問いだけ50問書かれた回答用紙に覚えた答えをそのまま記入するという教学試験を受験し、45点以上だと合格というものです。

私も入会1年目で教学試験を受けました。当時は7号まで発行されており、学生会員はほぼ全員受験をしていました。全く浄土真宗についての予備知識のない状態でこの教学聖典を丸暗記していくので、言葉の定義についてはこの教学聖典がベースと成っています。

私が親鸞会を除名になって浄土真宗辞典を見るようになって気がついたのは、「言葉の定義がそもそも違う」というものでした。主要な言葉については、「親鸞会で覚えた事は本当にあっているのか」と逐一確認するような状態でした。

その為、教学聖典に掲載されていない用語については「重要でないもの」という刷り込みも発生します。伊藤健太郎教学部長がyoutubeで「誰も知らない言葉で会員を惑わす」といっている「誰も知らない言葉」は、親鸞会会員以外の人ならば誰でも知っている言葉である事が多いです。


浄土真宗辞典での宿善

改めて浄土真宗辞典ではどのように書かれているか引用します。

しゅくぜん 宿善
過去世に積んだ善根のこと。
宿世の善因縁の意で、獲信のための善き因縁のこと。『御一代記聞書』第233条に「宿善めだたしといふはわろし。御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふよし仰せられ候ふ」(註1307)とあるように、浄土真宗では、信心を得る縁となる阿弥陀仏の調育のはたらきであるとする。

教学聖典での宿善

それに対して、親鸞会での宿善は以下のようになっています。

親鸞会教学聖典5号

問(24) 「無宿善は絶対に助からぬ」と明言されている蓮如上人のお言葉と根拠を、二カ所示せ。

答(24)
○いずれの経釈によるとも既に宿善に限れりと見えたり。(御文章)
○無宿善の機に至りては力及ばず。(御文章)


問(25) 「阿弥陀如来に救い摂られるか否かは、ひとえに宿善の有無にかかっている」と教えられた蓮如上人のお言葉と、その根拠を示せ。

答(25)
○されば弥陀に帰命すというも信心獲得すというも宿善にあらずということなし。(御文章)


問(26) 「宿善に厚薄あり」と言われた蓮如上人のお言葉と、その根拠を示せ。

答(26)
○宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり、弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く開くる人もあり。
              (御一代記聞書)


問(27) 宿善の厚き人と、薄き人との違いを教えられた『唯信鈔』の御文を示せ。

答(27)
○宿善の厚きものは今生も善根を修し悪業をおそる。宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。


問(28) 「宿善」とはどんなことか、二通りの読み方を示せ。また宿善が厚くなる順から三つあげよ。

答(28)
○「宿世の善根」とか、「善が宿る」とも読む。
(1)熱心な聞法
(2)五正行の実践
(3)六度万行の実践


問(42) 「阿弥陀如来に向かっての諸善は、すべて宿善になる」と教えられている、親鸞聖人の『ご和讃』と、その根拠を示せ。

答(42)
○諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆえに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり
           (浄土和讃

親鸞会教学聖典9号

問(44) 「何もしないでいて時節到来とは言わぬように、宿善も聴聞を心にかけてのことである」と教えられた蓮如上人のお言葉と、その根拠を示せ。

答(44)
○「時節到来」という事、用心をもして、その上に事の出来候を「時節到来」とはいうべし。無用心にて事の出来候を「時節到来」とはいわぬ事なり。聴聞を心 がけての上の「宿善・無宿善」ともいう事なり。ただ信心を聞くにきわまる事なる由、仰せの由に候。
  (御一代記聞書)


問(45) 阿弥陀如来の慈悲は平等であっても、宿善の違いで早く救われる者と遅き者、早く往生する者と遅き者のあることを説かれた『阿弥陀経』の御文 を書け。

答(45)
○已発願、今発願、当発願
(已に発願し、今発願し、当に発願せん)
○若已生、若今生、若当生
(若しは已に生れ、若しは今生れ、若しは当に生れん)

教学聖典を丸暗記すると「宿善」はこうなる

教学聖典は、問いと答えをセットしにして暗記をするので、聖典のご文を暗記しているつもりが問いも暗記している事になります。
親鸞会に置ける「教学」とは、実に「問い」の暗記にあります。私自身もそうでしたが、教学聖典の試験を受ける際は満点合格を目指して「答え」を懸命に暗記します。やっている時は「答え」を暗記しているつもりでしたが、その実は「問い」という形の親鸞会教義を知らずのうちに暗記していたのです。特に会員は「問い」が間違っていると言う事には気がつきません。
しかし、この「問い」に大きな問題があります。問いの文章がそもそも真宗教義と違うものであったり、問いと答えが対応していないものも多くあります。そこで、問いだけに注目すると親鸞会の宿善はこのようになります。


教学聖典による宿善の定義

基本的に「宿善」の語義については教学聖典では「宿世の善根」としています。その上で教学聖典では関連する問いを取り上げるとこのように言っています。

  1. 「無宿善は絶対に助からぬ」
  2. 阿弥陀如来に救い摂られるか否かは、ひとえに宿善の有無にかかっている」
  3. 「宿善に厚薄あり」
  4. 宿善が厚くなる順から三つあげよ。
  5. 阿弥陀如来に向かっての諸善は、すべて宿善になる」
  6. 「何もしないでいて時節到来とは言わぬように、宿善も聴聞を心にかけてのことである」
  7. 阿弥陀如来の慈悲は平等であっても、宿善の違いで早く救われる者と遅き者、早く往生する者と遅き者のある

これだけ並べると会員の方もわかるのではないでしょうか?
親鸞会の教学聖典を丸暗記すると、「宿世の善根」無しに救われる事はありません。また、阿弥陀如来に向かっての諸善は宿善となり、宿善は三つの事(熱心な聞法、五正行の実践、六度万行の実践)で厚くなるものであり、宿善厚い人程早く救われると言う事になります。事実そう考えている会員ばかりです。
このように定義された「親鸞会の宿善」で助かると思わされているのが親鸞会会員です。



特に悪質な「宿善に厚薄あるから遅速あり」の刷り込み

このようにとにかく宿善が無ければ助からないと思い込まされた会員を活動に駆り立てるのが、以下の問いと答えです。

教学聖典5号
問(26) 「宿善に厚薄あり」と言われた蓮如上人のお言葉と、その根拠を示せ。

答(26)
○宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり、弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く開くる人もあり。(御一代記聞書)

まず問いに「宿善に厚薄あり」とありますが、答えの御一代記聞書には「厚薄」の文字はありません。「遅速」とあります。その時点で問いと答えが対応していません。全文は、文末に掲載しますので参照下さい。

ここで御一代記聞書では、「宿善も遅速あり」とあるのは「宿善開発に遅速ある」といわれているに過ぎません。「親鸞会の宿善(過去世の善根)」が厚い人ほど早く宿善開発するとは書かれているものではありません。
しかし、会員のほとんどはこの御一代記聞書のご文を信心獲得の早い遅いは宿善の厚薄(これまでの善根の多少)によると思い込んでいます。なぜそう思い込んでいるのかといえば、それは高森顕徹会長が法話でこの御一代記聞書をそのように説明をしているからです。

この御一代記聞書は高森顕徹会長が「五重の義」「宿善について」の演題の法話で出しています。その時の説明は

「宿善に遅速ありとあるけれど、これは宿善に厚薄ありと意味は同じです。厚いという事は速いと言う事であり、薄いと言う事は遅いということだ」

と言うものです。

私もこのような説明を聞き「そういうものか」と思っていました。

そもそもの話として「宿善の厚薄」と書かれた蓮如上人の言葉はありません。浄土真宗聖典註釈版上でも、1ヶ所しかありません。それは覚如上人の口伝鈔です。

「宿善の厚薄」は口伝鈔の一ヶ所のみ

これは親鸞会会員には「体質不体失往生の諍論」としてよく知られている場面の文章です。法然聖人が、善慧房と善信房(親鸞聖人)の意見の違いについて裁定をされる場面に出てきます。

法然聖人の)仰せにのたまはく、「善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。〈如来教法元無二〉(法事讃・下)なれども、〈正為衆生機不同〉(同・下)なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。(
口伝鈔 - WikiArc・P897)

二人の意見が異なるのは「宿善の厚薄による」のだと言われています。

現代語訳では以下の通りです。

善導大師も言われているように、如来の教法は、本来一つであって、二も三もあるわけはないが、教えを受けた人の理解能力に差がある為に、その人その人の理解能力に応じてさまざまな教法が在るように見えるのです。人々の理解能力に違いがあるのは、遠い過去からの仏縁の厚い薄いに依るわけです。

ここで使われているのも「救われる事の速い遅い」の文脈で書かれたものではありません。「わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄による」と言うものです。またこの現代語訳でも「仏縁の厚い薄い」はあっても「過去の善根の厚い薄い」ではありません。

宿善の厚薄は問題にならない。問題になるのは宿善・無宿善

親鸞会では「宿善が厚くなる」ために会員にいろいろと活動を推奨しています。これまで現場では「宿善を厚くしましょう」と盛んに会員に言って来ました。全ての活動は「宿善が厚くなる」の一点に集約されているといって過言ではありません。

それは「宿善が薄いと時間がかかり、宿善が厚いと速く救われる」という教学聖典の「問い」を信じ込まされているからです。しかし、それは問題にするところではありません。

問題になるのは、「宿善・無宿善」ということです。
それは先に上げた教学聖典9号にも出てきます。

問(44) 「何もしないでいて時節到来とは言わぬように、宿善も聴聞を心にかけてのことである」と教えられた蓮如上人のお言葉と、その根拠を示せ。

答(44)
○「時節到来」という事、用心をもして、その上に事の出来候を「時節到来」とはいうべし。無用心にて事の出来候を「時節到来」とはいわぬ事なり。聴聞を心 がけての上の「宿善・無宿善」ともいう事なり。ただ信心を聞くにきわまる事なる由、仰せの由に候。(御一代記聞書)

ここも「問い」は「宿善」の意味が「過去の善根」の意味で読ませるのでミスリードのものです。
ただ、ここでは「宿善・無宿善」が問題になるのだと言われています。聴聞をしている人にとって「宿善の厚薄」が問題になるとは言われていません。

この御一代記聞書は「仏法を聴聞することを心がけた上で、信心を得るための縁がある身だとか、ない身だとかいうのである(現代語訳)」と書かれたものです。「宿善・無宿善」というのは、自分に助かる縁が有るのか無いのかという意味の話です。自分は無宿善ではないかと聞法しながら悩んでいる人に蓮如上人は「ただ信心は聞くにきわまる事」と言われています。無宿善と感じた人に、「より宿善厚くなるように頑張れ」とは言われていません。

またこの御一代記聞書では、「聴聞を心がけての上の宿善・無宿善」とありますから、既に聴聞している人についての事です。親鸞会の定義では、無宿善の人は絶対に善知識に会えない訳ですから聴聞もしていないという事になります。その意味でもこの御一代記聞書に出てくる「宿善」は親鸞会のいう「過去の善」という意味ではありません。


「宿善が厚くなるから聴聞する」は間違い

この御一代記聞書でも「聴聞を心がけてのうへの宿善・無宿善ともいふことなり。ただ信心はきくにきはまることなる」と言われています。聴聞は信心を獲るか否かの話で有って、宿善が厚くなるか否かと言うものではありません。


2023年9月に会員に配布した親鸞会館への参詣を促す文章にも

“宿善は待つに非ず、求むるものなり”と言われますように、宿善薄き者は、宿善厚くなるように心掛けねばなりません。”
宿善厚くなるように、親鸞聖人は
「大千世界に、みてらん火をもすぎゆて聞け」と教えられ(2023年9月に会員に配布された文章)*1

とあり、聴聞は「宿善厚くなるように」するものと会員に推奨しています。

今の親鸞会は、富山県親鸞会館に足を運んで正座をして聴聞する目的は「宿善厚くなるように」と言うことです。教学聖典に引用した上記の御一代記聞書のお言葉と全く違います。

このように会員に文字で「宿善厚くなる」ために会館参詣を促すのは、そもそも高森顕徹会長のビデオ法話で信心が獲られると思っていない何よりの証拠です。「宿善が厚くなる」事はあっても、信心決定の身に足を運んだその場でなれるとは思えないのでしょう。

親鸞聖人の「大千世界に、みてらん火をもすぎゆきて仏の御名を聞け」も、御一代記聞書の「ただ信心はきくにきはまることなる」も、「宿善厚くなる」こととしか読めないのは、それこそ「宿善の厚薄による」といわざるをえません。

宿善厚くなって命終わるか、信心決定して命終わるか

最後にここまで読まれた会員の方は自分自身の心によくよく尋ねてみてください。
貴方は宿善厚くなったら死んでも後悔ないのでしょうか?命のある間に信心決定の身になりたいのでしょうか?
宿善厚くなりたいならば親鸞会で活動を続けるのも選択肢でしょう。しかし、阿弥陀仏はただ今貴方を助けると喚びかけておられます。


参照1 「宿善も遅速あり」

(307)
一 陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。(蓮如上人御一代記聞書 - WikiArc浄土真宗聖典註釈版P1331)

(現代語訳)
 蓮如上人は、「万物を生み出す力に、陽の気と陰の気とがある。
陽の気を受ける日向の花ははやく開き、陰の気を受ける日陰の花はおそく咲くのである。
これと同じように、宿善が開けることについても、おそいはやいがある。
だから、すでに往生したもの、今往生するもの、これから往生するものという違いがある。
弥陀の光明に照らされて、宿善がはやくひらける人もいれば、おそく開ける人もいる。
いずれにせよ、信心を得たものも、得ていないものも、ともに心から仏法を聴聞しなければならない」と仰せになりました。
そして、すでに往生した、今往生する、これから往生するという違いがあることについて、上人は、「昨日、宿善が開けて信心を得た人もいれば、今日、宿善が開けて信心を得る人もいる。
また、明日、宿善が開けて信心を得る人もいる」と仰せになりました。

参照2「聴聞を心がけてのうへの宿善・無宿善」

(105)

一 時節到来といふこと、用心をもしてそのうへに事の出でき候ふを、時節到来とはいふべし。無用心にて出でき候ふを時節到来とはいはぬことなり。聴聞を心がけてのうへの宿善・無宿善ともいふことなり。ただ信心はきくにきはまることなるよし仰せのよし候ふ。(蓮如上人御一代記聞書 - WikiArc
(現代語訳)
時節到来という言葉がある。
あらかじめ用心をしていて、その上で事がおこった場合に、時節到来というのである。
何一つ用心もしないで事がおこった場合は、時節到来とはいわないのである。
信心を得るということも同じであり、あらかじめ仏法を聴聞することを心がけた上で、信心を得るための縁がある身だとか、ない身だとかいうのである。
とにもかくにも、信心は聞くということにつきるのである」と、蓮如上人は仰せになりました。