親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「方便なんか要らない、18願だけでいいんだ。全くの誤解」(浄土真宗を学ぶch by 渡部隆志)から見る親鸞会における「方便」の使い方

youtu.be
浄土真宗親鸞会渡部隆志弘宣局長のyoutubeチャンネルで最近上記を含めて、主に退会しそうな会員向けの動画が公開されています。
この動画では、「方便なんか要らない」という人に対して「それは間違いだ」という話をしています。


先に全体的な感想を書きますと、とても分かりにくい話です。なぜそうなるかといえば、「方便」の語義が定まっていないからです。


一応、この動画では根拠として、以下の御一代記聞書を出しています。

「【方便不要の誤解】「方便より真実に入る」三願転入の教え=親鸞聖人の教え」より

一 蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。(蓮如上人御一代記聞書 - WikiArc・176・浄土真宗聖典註釈版P1286)
(現代語訳)
 蓮如上人は、「方便を悪いということはあってはならない。
方便によって真実が顕され、真実が明らかになれば方便は廃されるのである。
方便は真実に導く手だてであることを十分に心得なければならない。
阿弥陀如来釈尊・よき師の巧みな手だてによって、わたしたちは真実の信心を得させていただくのである」と仰せになりました。


この御一代記聞書は、方便と言う言葉が出てきます。
前段の「方便」は「方便をもって真実をあらはす廃立の義」とありますので、「権仮方便」のことをいわれています。
後段の「方便」は「善巧方便によりて、真実の信をばうることなる」ですから「善巧方便」のことをいわれています。

「方便」「権仮方便」「善巧方便」について

それぞれ浄土真宗辞典から引いてみます。

ほうべん 方便
梵語ウパーヤの意訳。近づく、到達するの意。巧みな方法を用いて衆生を導くこと、真実の法に導くための仮の手だてとしての教え、巧みな教化方法、差別の事象を知って衆生を利益する智慧などの種々の意味がある。(略)
浄土真宗では、善巧方便と権仮方便の2種類の意があるとされる。


親鸞会で「方便」といえば、「○我々を真実に近づけ、真実を体得させるに絶対必要なものを言う(教学聖典2号6)」の意味しかありません。しかし、浄土真宗では「善巧方便」と「権仮方便」とそれぞれ違う意味として使われる言葉です。

ごんけほうべん 権仮方便
真実の法に入らしめるために仮に設けた法門のこと。権仮・権方便・権門などともいう。方便の願、方便の行信、方便化身土と言われる場合の「方便」がこれに相当する。一度真実に入ったならば不要となり廃される暫用還廃(ざんゆうげんぱい)(暫く用いて還りて廃す)の法ともいわれる。
「化身土巻」には「この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す」(註392)、『浄土和讃』には「聖道権仮の方便に 衆生久しくとどまりて 諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ」(註569)などとある。


ここであるように、19願、20願は権仮方便です。「真実を体得させるに絶対必要なもの」ではなく「一度真実に入ったならば不要となり廃される暫用還廃の法」です。


しかし、親鸞会では「真実に入るまでは必要なのだ」と教えます。この動画でも、以下の場面でこう話をしています。

その救い摂られる時には19願、20願は廃捨されます。そして18願で摂め取って下される。しかし、そこまでは要るんです。これが弥陀の善巧方便。(【方便不要の誤解】「方便より真実に入る」三願転入の教え=親鸞聖人の教え - YouTube19:17あたりから再生)

ここでも、19願、20願(権仮方便)の話をしているかと思えば、「これが弥陀の善巧方便」と言ったりして、聞いている側が「一体この人は何の話をしているのだろうか」と混乱します。ここはあくまで一例として取り上げていますが、この30分40秒の動画全体がこのように「権仮方便」「善巧方便」をごちゃまぜにしながら話をしているので、親鸞会に長くいたことのある人間以外にはとても理解できない内容となっています。


また、加えて言えば、「教え」と「実行」がごちゃまぜになっているのもその特徴です。
親鸞会の人は「聖道仏教は方便の教えだ」といいます。これはその通りです。ですから「真実の教え」を知ったならば、「方便の教え」を実践する必要はありません。これが「暫用還廃(暫く用いて還りて廃す)の法」ということです。


同様に、19願、20願も権仮方便であり「暫用還廃(暫く用いて還りて廃す)の法」ですから、真実の願(18願)による救いを知ったならば、それを実践する必要はありません。「修諸功徳によって救われるのではない」と廃することで、南無阿弥陀仏による救いが明らかになるということです。


しかし、この動画では「(18願で救われる)そこまでは(19願、20願が)要るんです(同上)」と言っています。18願は縦の線の向こう側で待っていて、縦の線を超えるには、19願、20願というジャンプ台や階段が必要なようです。

「善巧方便」について

では、権仮方便に対して善巧方便とはどういうことかについて書きます。

ぜんぎょうほうべん 善巧方便
仏・菩薩の智慧のはたらきそのもので、大悲の具現としての手段・方法のこと。阿弥陀仏を方便法身という場合の「方便」がこれに相当する。『高僧和讃』には「釈迦・弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり」(註591)とある。(浄土真宗辞典

色も形もない、真如や一如といわれる智慧の領域から阿弥陀仏となって顕れてくださったことを善巧方便といいます。その阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏となって今私に働き掛けて下さっています。18願から顕れてくださった南無阿弥陀仏そのものが、私を救うために独り働きをされているのが、弥陀の善巧方便といいます。
その南無阿弥陀仏の独り働きで救ってくださるということを、説かれるのがお釈迦さま、善知識の善巧方便というものです。


ですから、18願・南無阿弥陀仏が善巧方便であって、19願・20願は善巧方便とはいいません。
御一代記聞書にも「善巧方便によりて、真実の信をばうることなる」とありますから、南無阿弥陀仏(善巧方便)によって真実の信心は獲られるのです。

まとめ

親鸞会での「方便」は、「権仮方便」と「善巧方便」を混同して話をするので、聞いている人もよくわかりません。
しかし「何によって信をうる」のかといえば、「善巧方便」であって「権仮方便」ではありません。
また、「真実か方便か」というのは「教え」の時点で分けられているものです。「方便だから実践せねばならない」というものではありません。
真実の信は、真実の行と分けることはできません。方便の行からは真実の信は出てきません。
真実の信をうるために方便の行があるのではなく、真実の行によって真実の信があるのです。この真実の行信が善巧方便です。その意味では「方便は必要」といえます。阿弥陀仏となられたのも善巧方便ですから、それがなければ私たちを救われることがありません。南無阿弥陀仏となって呼びかけて下さるのも善巧方便ですから、それがなければ私が救われることはありません。


真実の行信とは南無阿弥陀仏です。修諸功徳でも、自力の念仏でもありません。「権仮方便の教え」は今の私にとって聞く必要も実践する必要もありません。


「方便だから」と親鸞会の人がいう時には、「権仮方便」なのか「善巧方便」なのかを見分けてから考えてください。

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読んだら感想を書きます。
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