親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会の人にもわかる「方便と真実」について

前々回のエントリー親鸞会機関誌顕正新聞11月1日号の「方便」が間違っている件 - 親鸞会を脱会した人(したい人)へを書いて思ったことです。
それは、親鸞会を続けている人は「方便と真実」の意味を間違って理解しているということです。
親鸞会機関誌顕正新聞平成24年11月1日号1面にも

仏教で「方便」とは、目的を果たすに不可欠な方法手段をいう。

と書いているのが、親鸞会の方便の定義です。
親鸞会発行「教学聖典2号」が、会員の頭に擦り込まれている定義です。
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問(6) 仏教で方便とはどんなことか。

答(6)○我々を真実に近づけ、真実を体得させるに絶対必要なものを言う。

実際に私も、過去にそのように思っていました。
親鸞会会員の人には、「これのどこがおかしいのか?」と思われる方もあると思います。

親鸞会の主張では『真実=18願、方便=19願、20願」と言葉の定義が固定化しているので、上記の教学聖典2号6番の答えの文章にあてはめると。

我々を18願に近づけ、18願の救いにあわせるために絶対必要なものを19願、20願という

となります。実際に、「親鸞会的三願転入」の話は上記の理屈で成り立っています。

しかし、これは違います。18願は「方便の真実」であって、親鸞会の教学聖典風に言うと「18願は、真実を体得させるための方便であり、その方便の中の真実」となります。

方便と真実について、浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版の補注15から引用します。

15 方便・隠顕
方便とは、仏が衆生を救済するときに用いられるたくみな方法(てだて)をいう。その中に真実と権仮とがある。真実の方便とは、仏の本意にかなって用いられる教化の方法で、随自意の法門をいう。それは、大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるというので、善巧方便ともいう。阿弥陀仏を方便法身というときの方便がそれである。
権仮方便とは、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないから、その機に応じて、仮に暫く誘引のために用いられる程度の低い教えをいう。機が熟すれば真実の法門に入らしめて、権仮の法門は還って廃せられる。このように暫く用いるが、後には還って廃するような随他意の法門を権仮方便という。「方便化身土」といわれるときの方便がそれである。(浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版_補注15より・P1570)

ここにも書かれていますが、仏が私を救うための手だてを方便といいます。なぜなら、真実の仏とは、色も形もありませんので凡夫には認識ができません。その色も形もない真実を一如ともいいます。その一如からあらわれて下されたのが方便です。それが法蔵菩薩であり、阿弥陀如来の本願です。以前のエントリーでも紹介した唯信鈔文意に書かれているのはそのことです。

法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。(唯信鈔文意・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P709)

http://goo.gl/NLjRs

一如(真実)が、私を救うために働いて下さっている動きを方便といいます。その方便の中に真実(善巧方便)と権仮(権仮方便)とがあります。「絶対必要」という言い方を使うならば、「絶対必要」なのは「真実(善巧方便・18願)」であって「権仮(権仮方便・19願・20願)」ではありません。

今回のまとめ

  • 方便は、仏が衆生を救うためのたくみな方法をいう。
  • 方便に真実と権仮がある。
  • 方便の真実を善巧方便といい、18願をいう。
  • 方便の権仮を権仮方便といい、19願、20願をいう。
  • 「絶対必要」なのは18願であって、19願、20願はしばらく用いられても後には捨てられるので「絶対必要」とはいえない。


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