親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

【書評】令和版「なぜ生きる」に見る親鸞会の変化ー「人生の目的・旅人は、無人の広野でトラに出会った」(高森顕徹監修・高森光晴・大見滋紀共著)

1万年堂出版の新刊「人生の目的 旅人は、無人の広野でトラに出会った」(高森顕徹監修・高森光晴・大見滋紀共著)を読みました。


人生の目的 旅人は、無人の広野でトラに出会った
以下、思ったことを書きます。

目次

結論・令和版「なぜ生きる」

高森顕徹会長監修(実質著作)「なぜ生きる」が出版されたのは、2001年(平成13年)4月20日でした。

当時は、「現代の教行信証」とか、「黄金の書」などと会の中では喧伝されました。当時私は、親鸞会講師でしたがその年の学生部の勧誘はこの「なぜ生きる」をテキストとして、これに沿った内容となりました。また、各支部ではこの「なぜ生きる」の輪読会が推奨され、活動会員は何度も読むようになりました。

それから22年経って2023年に出たのが今回の「人生の目的 旅人は、無人の広野でトラに出会った」です。内容は後に書きますが、これは令和版「なぜ生きる」です。この22年間の間に親鸞会に起きた変化と、現在の親鸞会が一体どのような団体なのかがよく現れています。


「なぜ生きる」からのほぼ転載が多い点

この「人生の目的 旅人は、無人の広野でトラに出会った」(以下、「人生の目的」と表記)は、タイトルと表紙でわかるように、親鸞会会員はよく知っている「人間の実相」の法話内容がほとんどです。


一読すると分かりますが、例示として出てくる話に「なぜ生きる」に出てきたものが多いです。
全部ではありませんが、思いつくものを以下に列記します。

  • 江藤淳氏「妻と私」より
  • トルストイ「懺悔」より
  • 「今までは 他人のことぞと 思うたに オレが死ぬとは こいつぁたまらぬ」
  • 岸本英夫氏(宗教学者)の話
  • ティリッヒ(ドイツの哲学者)『生きる勇気』より
  • 出る息は入る息を待たず
  • 浦島太郎は、本当に、心のやさしい人だったのか
  • 三枚の鏡(肉眼、虫眼鏡、電子顕微鏡
  • 世人薄俗にして、共に不急の事を諍う (『大無量寿経』)
  • 大命、将に終らんとして悔懼こもごも至る (『大無量寿経』)

全部で193頁、文字量だけ比べればなぜ生きるより4分の1以下の分量でこれだけエピソードが重なるのは焼き直しと感じるのが正直な感想です。


「なぜ生きる」になかった部分・因果の道理の強調

この「人生の目的」には、「なぜ生きる」になかったものがいくつか追加されています。そこが、この23年間の親鸞会の変化をあらわしています。

まず因果の道理についてかなりの文字量を使っています。

「人生の目的」P103

これは大きな違いで、「なぜ生きる」には「因果の道理」というワードは以下の一ヶ所だけです。

牢獄で二人の弟子は、
“まかぬタネは生えぬ、刈り取らねばならぬ一切のものは自分のまいたものばかり”と因果の道理を諄々と説き示す。(なぜ生きる2部(7)「王舎城の悲劇」と人生の目的)

ここも王舎城の悲劇の描写として出てくるだけで、本の内容とはほぼ関係ありません。

この因果の道理に加えて、同じく「なぜ生きる」に無かった以下の御文が加わります。

心は常に悪を思い
口は常に悪を言い
体は常に悪を行って
かつて一善もなし
(大無量寿経
(人生の目的 P91)

これに加えて、十悪の説明が続き、最後は地獄についての文章が続く構成となっています。

火の車 造る大工は なけれども 己が造りて 己が乗りゆく」
(同 P137)

地獄と自業自得の強調

地獄や後生の話をすることが悪いとは言いません。ただ、本書を書いた著者の意図からすると、どうしても自己責任を強調したいようです。

地獄は、自分(自)の犯した行為(業)が生み出した、苦しみ(苦)の世界だから、漢字で、「自業苦」ともいわれます。
ブッダの教えに、「自業自得」という言葉があります。
(略)
ブッダの教えでは、自分に現れた結果で自業自得でないものは何もないのです。
自分に現れたすべての結果は自業自得なのです。(同 P138・強調原文ママ

特にここ数年は「因果の道理」のビデオ法話が多いと聞きます。親鸞会会員には、この「自業自得」が血肉化されて、「救われないのは自分のせい」と思わされている人が大半だと思います。
高森顕徹会長が引退した後は、この「自業自得」で会員が救われない責任を会員に押し付ける意図が強く出ています。


絶対の幸福から永遠の幸福へ

「なぜ生きる」になく「人生の目的」にあるものとして、「永遠の幸福」という言葉があります。

阿弥陀仏の本願を聞信して、この世から永遠の幸福になることこそが、人間に生まれた唯一の目的なのだよ」
ブッダは生涯教え続けていかれたことでした。
阿弥陀仏の本願に救われ、無上の幸福になった世界を(略)(同 P176)

以前は、こういう文脈では「絶対の幸福」の語しか使いませんでしたが、新たに「永遠の幸福」の語が追加されたようです。なんとなく幸福の科学からインスパイアされたかのように感じますが、親鸞会における救済イメージは少し変わりつつあるように感じました。


ブッダの講演会」という表現に見る「ビデオ法話」の位置づけの変化

この本を読んでとても気になるのは「ブッダの講演会」という言葉です。

ある時、ブッダの講演会の大衆にまじって、国の王である、勝光王が来場していました。(同 P15)

いわば「一切経」は、ブッダ一代の「講演集」と言われましょう。
小著の最初のページのカラーの絵は、ブッダの講演集の中の『譬喩経』に説かれている内容を描いたものです。( 同 P192 ここでこの本は終わる)

なぜ気になるかと言えば、お釈迦さまが説かれたのは「法」ですから、「法話」「説法」「転法輪」などといわれます。「講演会」というと、「法」の話がなくても成立する言葉になってしまいます。

以前の親鸞会は、「法話」が基本でした。高森会長の話も「法話」であり、講師部員の話も「法話」でした。流れが変わったのは1997年ごろに行われた東京国際フォーラムでの首都圏結集行事からでした。この時、高森顕徹会長はいつもの教誨服ではなく、ジャケット姿で登壇し、会場にはお仏壇も設置せず「講演会」という形式で行われました。これは、初めて来る人が驚かないようにという配慮で始まったことですが、これ以降「法話形式」と「講演会形式」のものが親鸞会に現れるようになりました。

また、ここ数年高森顕徹会長は、体調のこともあり教誨服を来て会員の前に立つ回数も減ってきていました。最近の行事名も「二千畳ご講演」とし、過去の高森顕徹会長の講演ビデオを上映しています。

会員にとって、聴聞とは「ご講演を聞く」ことになっているので、この「経典はブッダの講演集」という表現は、高森顕徹会長の講演会のビデオは「経典」に等しいものだという扱いになった変化があらわれています。

高森顕徹会長が元気だったころは「一番は高森顕徹先生から直接のご説法を聞かせていただく事」であり、ビデオは「その次」「話は同じだけどビデオは直接ではないので獲信できない」という扱いでした。

それが、ここ数年高森顕徹会長事実上の不在で、ビデオが主体となり、ビデオの格が「聖典」クラスにあがったようです。これで誰が次期会長になったとしても、会員は安心して高森顕徹会長のビデオを聴聞すればよいということのようです。


南無阿弥陀仏の御心を聞く一念に」について

もう一つ気になる表現があります。

ブッダは、阿弥陀仏の救いについて、簡単明瞭、以下のように励ましていられます。
諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念(大無量寿経
ブッダの、このお言葉を平易に言えば、「どんな人も阿弥陀仏の創られた南無阿弥陀仏の御心を聞く一念に、無上の幸福になれるのだよ」と優しく説かれています。(同 P172)

まず、南無阿弥陀仏阿弥陀仏が創られた創造物ではありません。法蔵菩薩南無阿弥陀仏となられました。
また、「聞其名号」ですから、名号(南無阿弥陀仏)を聞くのであって「南無阿弥陀仏の御心を聞く」のではありません。

「名号」という言葉は、「なぜ生きる」には一度も出てこなかった言葉です。そういう意味では、親鸞会の変化があらわれているといえます。しかし、「南無阿弥陀仏の御心を聞いて助かる」と会員に言い続けることは、会員を救いから遠ざける結果になります。

まとめ

この本は、令和版「なぜ生きる」といって良い内容ですが、前著から22年経った親鸞会の変わらないところと変わった所がよくわかるものとなっています。

親鸞会の変わらない点

前述しましたが、「なぜ生きる」からの転載の話が多いです。しかし、それ以外に載っている話も、親鸞会学生部出身の人ならば聞いた話以外は載っていません。
(例)力道山の話、三人の妻、荷車を壊した牛の話、三百本の槍の譬え、四人の弓の名手、悪人正機と校長先生の話、盲亀浮木の譬など。
経典に載っているような話は別としても、著者が書いたと思われる話はほぼないといってもいいと思います。

これは、親鸞会の変わらない点として、「高森顕徹会長から聞いた話以外はしない」ことをあらわしています。
高森顕徹会長自身か、親鸞会内部向けに機関紙に書いてきた文章の多くが、他人からの剽窃でした。これと同じように、この本も高森顕徹会長の書いた文章からの転載(許可はとっているでしょうから剽窃ではない)です。
つまり、かなりお手軽に作られた本という事になります。比較すれば、「なぜ生きる」はもっと労力を使って作られたと思います。


今後も「高森顕徹会長が言わなかった事」は話す事はないでしょう。つまり、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏のいわれについて親鸞会で話す事はないということです。

親鸞会の変わった点

これは高森顕徹会長の不在です。一応「高森顕徹監修」となっていますが、一読してみればほとんど高森顕徹会長の目は通っていないことが分かります。ここから、事実上高森顕徹会長は、実質ほとんど会長として機能していないのではないかと感じます。

それと、「なぜ生きる」は「浄土真宗」の本として出していましたが、この本は「ブッダの教え」です。

人類は、混迷の度を深めている。
 そんな中、”なんと生きるとは素晴らしいことなのか……”親鸞聖人は高らかに叫びあげられる。(なぜ生きる あとがき)

「これだけ耐えてきたことに、一体、どんな意味があったのか」と、反省したり、悔やんだりされている方も有りましょう。
しかし、それらの一切は、人間に生まれた唯一の目的を果たす道程であり、ムダは一つもないのだよ、と、ブッダは優しく見守ってくだされています。(人生の目的 P179 本文ほぼ最後)

「なぜ生きる」は「親鸞聖人」が中心でしたが、「人生の目的」は、ブッダの講演についての本という扱いです。最後に、阿弥陀仏の本願も出てきますが、言葉はあるという程度で、念仏という言葉も出てきません。

親鸞会は、「浄土真宗」の教えが中心ではなく、「ブッダの教え」が中心となったようです。事実、ネット上や、各地で親鸞会がする話はいわゆる「ブッダの教え」であり、この「人生の目的」の本の内容ばかりです。


高森顕徹会長の事実上の不在という2023年現在の親鸞会が、浄土真宗の教えではなく、「ブッダの教え」を中心とする団体になってきたことと、次期会長と会員誰もが認めるような人材がいないことがよくわかる本です。



続き
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