親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

2019年の降誕会チラシに「降誕会」の文字がなくなったことから見える高森顕徹会長の変化

前回のエントリーで、親鸞会(高森顕徹会長の話)が以前に比べて変わったという点について書きました。
まとめていうと、「親鸞聖人のみ教えを徹底する」団体から「高森顕徹会長の教えを徹底する」団体に変わったというこことです。



今回は、その変化の表れとして親鸞会主催の降誕会のチラシを紹介します。

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2019年親鸞会降誕会チラシ
ちなみに、公式サイトでは、今回の行事を以下のように紹介しています。

親鸞聖人のご生誕をお祝いして勤められるのが、親鸞聖人降誕会(ごうたんえ)です。(略)
今回は、「真宗の極致」について、高森顕徹先生の講演があります。「極致」とは、これ以上大事な教えはないということです。浄土真宗の教えが1から解説されますので、初めて聞かれる方も親鸞聖人の教えがよく分かります。

https://shinrankai.jp/news/3030

御覧のように、公式サイトでは「親鸞聖人のご生誕をお祝いして」とありますが、会員でない人に向けてのチラシには「親鸞聖人」も「降誕会」もありません。かろうじて書いてあるのが会場名の「浄土真宗親鸞会館」のみです。



ちなみに、比較参考のために過去の降誕会のチラシを紹介します。

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2013年親鸞会降誕会チラシ
これは、2013年(平成25年)の親鸞会主催・降誕会のチラシです。
演題も親鸞聖人のご和讃であり、高森顕徹会長の名前さえも掲載されていません。

なぜチラシの表現が変わったのか?

親鸞会は、いろんな意味で高森顕徹会長のワンマン経営の会社のような組織です。そのため、高森顕徹会長がOKを出さない限りは、チラシの案も通ることはありません。その意味では、以前は許可しなかった「高森顕徹会長を全面に出す」チラシが出るようになったのは、高森顕徹会長の心の中に大きな変化があったからだろうと思います。


では、その心理的変化はどこから起きたのでしょうか?それは「年齢」です。
浄土真宗の人にとって「90歳」という言葉はある意味特別な意味を持っています。それは、親鸞聖人が「90歳」で浄土往生を遂げられたからです。そのため、いろんな方が「親鸞聖人の年までは元気でいたい」と言われています。高森顕徹会長も例外ではなかったでしょう。そこで、高森顕徹会長はこの2019年で90歳を迎えました。

本人は言わないので、私の推測として代弁すると高森顕徹会長は「私は親鸞聖人に並んだ」と思い、より長生きすれば「親鸞聖人を超えた」と、どういう訳か思ってしまったのでしょう。こう書くと「ちょっと何言ってる分からない」と言われる方も多いと思いますが、講師部員として10年間高森顕徹会長を見てきた人間としてはそのように高森顕徹会長が思うだろうということは想像に難くありません。

高森顕徹会長と親鸞会60年の歩みの本当のところ

かつての高森顕徹会長は、いわば「親鸞聖人」というお名前を掲げることによって、自分の教え(自説)を権威づけてきました。それを信じた会員「会長の説は正しい→親鸞聖人の説と同じだから」と受け止めていました。私もかつてはそう考えていました。

しかし、90歳も近づいてきた高森顕徹会長は、徐々にその本心を隠さなくなりました。それは、「自分の説の信憑性を高めるために親鸞聖人のお名前を出してきただけだ」ということです。いわば、自分のために親鸞聖人のお名前や、浄土真宗を利用してきたにすぎないということです。前回のエントリーにも書きましたが、それは過去の偉人や聖者の名前を出して、「自分はその正統後継者だ」言って憚らず、しかも内容を聞くと全く自説しかいわない数多の新興宗教の教祖と何も変わりません。


その証拠に、今回の降誕会のチラシは「高森顕徹先生記念講演」です。「親鸞聖人の教えを聞いて下さい」から「オレの話を聞け」に変わりました。もちろん実態は以前からもそうでしたが、少なくともチラシには書きませんでした。それは、90歳を超えて、「私は親鸞聖人を超えた」という高森顕徹会長の自意識が増大したことによるものでしょう。「100万部突破の著者の講演会」のチラシであって、「降誕会」でも「真宗の法話」でもないものです。

まとめ

90歳を越え、自著「なぜ生きる」が100万部を超えベストセラーとなり、映画化もされたことで、高森顕徹会長の「人生の目的」はある程度果たせたのではないでしょうか。それは、身も蓋もなく言えば「褒め称えられたい」です。


親鸞聖人のお名前と、そのお言葉を使って、「褒め称えられたい」という人生の目的を果たすことが出来た高森顕徹会長にとって、もはや「親鸞聖人」も「浄土真宗」も使わずに「高森顕徹先生」の名前で人が沢山親鸞会館にやって来るという自信を得たのでしょう。


しかし、それで高森顕徹会長本人は満足かも知れませんが、遠路はるばる富山まで毎月後生の解決を求めて足を運ぶ会員の立場に立っても同じことが言えるでしょうか?
また、毎月富山まで足を運ぶ会員の方はどう思われるでしょうか?


高森顕徹会長が「浄土真宗の法話」をするなら、それを聞けばいいでしょう。しかし、「100万部超えのベストセラーの監修者の話」しかしないのなら、ここまで読まれた会員の方は何を聞きに富山まで行かれるのでしょうか?少し考えて見て下さい。