親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

なにがなんでも参詣者を増やしたい親鸞会・高森顕徹会長(顕正新聞2018年6月15日号を読んで)

親鸞会機関紙顕正新聞2018年(平成30年)6月15日号を読みました。
以下、思ったことを書きます。

人集めが最大の関心事

6月の親鸞会館での高森顕徹会長の法話も一般紙に一面広告を掲載し、またその動画を公式サイトで公開しています。
その上、今回の機関紙である顕正新聞の一面は、「追悼法要には家族・親戚と」でした。
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私が知る限り、追悼法要に家族を誘うということは推進されていましたが、6月からこれが一面の記事になると言うのは初めて見ました。
なにがなんでも親鸞会館に多くの人が参詣していなければならない状況が必要な親鸞会にとっては、この「参詣者数」こそ一大事のようです。


しかし、6月の親鸞会館での高森顕徹会長の講演会の参加者は、よくていつも通りで、新聞広告などの効果はそれほどなかったようです。加えて、今回公開された6月の高森顕徹会長の動画(午前の前半41分)公開は、むしろ参詣者増に効果があるとは思えません。
私も今回公開された午前の前半の動画を見ましたが、話しの内容が殆どありません。これを見て、続きを聞きたいという人はあまりいないと思います。


参加した人から聞きますと、午前の前半で語っていた「どうすれば絶対の幸福になれるのか」「絶対の幸福になるとどうなるのか」の話は殆どなかったようです。
また、阿弥陀仏の本願は「絶対の幸福に救うという本願」という説明を強調し、その根拠はまったくありません。


高森顕徹会長の話は、もともとそうだったのですが、現状は「絶対の幸福の強調」が一番力を入れているようです。
法話の中で「絶対の幸福=永久の闇より救われたこと」と言いますが、それがそのまま「絶対に崩れない幸福」ということは間違いです。高森顕徹会長の話で「絶対の幸福」の語義は多岐にわたり、真宗の言葉を出して「イコール」だと言う時もあれば、全く別の説明をする時もあり、つまるところ「絶対の幸福」の真宗における対応する言葉がないのが実情です。


ただ、その強調している「絶対の幸福」も、こういえば参詣者が増えるだろう、続けてくるだろうという意図が話から透けて見えるので、どうしても続きを聞きたい人は、初めての人ほどいないでしょう。


種々の事情で、親鸞会館行事の参詣者数を多くしなければならない親鸞会ですが、元会員から見ても、打てる手は全て打っているというのが現状です。それでも参詣者が増えないとすれば、その原因は一つしかありません。それは、無料公開までした、高森顕徹会長の話に浄土真宗の中身がないからです。そのため「本当の親鸞聖人の教えを聞きたい人」は続けて聞きに来ませんし、「絶対の幸福になりたい人」も、その結論の話が出てこないので足を遠のけてしまいます。かつて、参詣者を引き寄せるために話をしていた「時間がないのでまた次回話します話法」が今日では全く裏目に出ているということです。


「真仮の水際を説き切るのが善知識」と言いながら、私の知っている高森顕徹会長の話は「説き切る」のではなく「また来週」の話が殆どでした。長年の会員も、さすがにこの話しかたにはついて行けなくなった人が多いでしょう。新しいご縁の人は、なおさら「忙しい中来たのに結論まで話がない」ことに失望していることと思います。


参詣者数をどうしても気にする高森顕徹会長に一言いうならば、以前散々言ったことを有言実行し「真仮の水際」を説くことです。長年の会員それを聞きたくて、遠路を厭わず親鸞会館まで足を運んでいます。また、「私は真仮の水際は説けません」というのならば、今からでも遅くはありませんから、会員の前でそれを認めて謝罪することです。そうすれば、みな安心して親鸞会を離れることが出来ます。

一 一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはなく候ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ。しかれば、「専修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず」(報恩講私記)とあそばされおかれ候ふ。(御一代記聞書 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1271)
(現代文)
一宗の繁昌というのは、人が多く集まり、勢いが盛んなことではない。
たとえ一人であっても、まことの信心を得ることが、一宗の繁昌なのである。
だから、『報恩講私記』に、「念仏のみ教えの繁昌は、親鸞聖人のみ教えを受けた人々の信心の力によって成就する」とお示しくださっているのである。

http://labo.wikidharma.org/index.php/蓮如上人御一代記聞書#P--1271

浄土真宗の繁昌とは「一人なりとも、人の信をとる」ことです。
今の親鸞会は「誰も信をとらないけれど、二千畳は満堂」を目指しているようにしか思えません。「二千畳を満堂にする」のが真宗の繁昌と思っているのなら間違いです。二千畳が満堂になろうがなるまいが、「一人なりとも人の信をとる」ことが大事です。


親鸞会会員の皆さんは、自身の信不信はさることながら、高森顕徹会長が「信を取れ」と勧めているかを考えて見て下さい。そうでないと思うなら、親鸞会以外で法を聞くのが適切です。