親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

2019年4月13日14日親鸞会館降誕会・演題「真宗の極致」の内容を、青年婦人学生大会と3月24日「なぜ生きる」映画解説の内容から予想する。

shinrankai.jp
2019年04月13日(土)14日(日)親鸞会館(富山県射水市)で、高森顕徹会長が話をする「親鸞聖人降誕会」が開かれます。
演題は「真宗の極致」です。

今回は、「真宗の極致」について、高森顕徹先生の講演があります。「極致」とは、これ以上大事な教えはないということです。浄土真宗の教えが1から解説されますので、初めて聞かれる方も親鸞聖人の教えがよく分かります。

https://shinrankai.jp/news/3030

「これ以上大事な教えはない」ということですから、会員の中には「今まで聞けなかったことが聞けるのかもしれない」と思う方もあるかもしれません。しかし、そうはならないと私は予想します。

結論からいうと、高森顕徹会長のいうところの「真宗の極致」は「また親鸞会館に来なさい」です。その予想について、2019年3月の高森顕徹会長の話から書いていきます。

2019年3月親鸞会館での高森顕徹会長の話(2回分)

親鸞会館(富山県射水市)で2019年03月10日に、青年婦人学生大会、2019年03月24日に「なぜ生きる」映画解説が、高森顕徹会長の話で行われました。

参加された方から情報を頂いておりましたが、今回記事にするのが遅くなり申し訳ございません。そこで、降誕会での話の予想という記事に含めて書いていきます。

青年婦人学生大会では、以下のようなプリントが配布されました。
f:id:yamamoya:20190402162838j:plain
御覧の通り、アニメ映画「なぜ生きる」シナリオブックの一部です。今回は、会員になっていない人も参加する前提で配布をしたようです。

この中の
「やがて必ず死なねばならないのに、なぜ苦しくても生きねばならないのでしょうか。おかしな話ではありませんか」
についての話から、「人間の実相」の掛け軸の話が有りました。

3月24日の「なぜ生きる」映画解説は

映画『なぜ生きる』を観られた方からの質問、
「聞く一つで、大船に乗せる」ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからですとは、どんなことでしょうか。

についての話でした。
こちらもほぼ一日「人間の実相の掛け軸」の話でした。結論は、「五欲のハチミツにしか心が動かないものを救うという本願を真剣に聞け、火の中分けて聞け」というものでした。

「映画なぜ生きる」のシナリオとその解説しかない最近の高森顕徹会長の話

このブログでもこれまで書いてきましたが、最近の高森顕徹会長の話は「映画なぜ生きる」のシナリオとその解説しかありません。3月もそうでした。また、話の大半の結論は「聞く一つで助ける本願」といいながら、何を聞くかについては殆ど言うことはありません。今回はほぼ「人間の実相の掛け軸の話」でした。そして「真剣に聞け」「火の中分けて聞け」と強調して3月のアニメ映画解説は終わりました。

映画「なぜ生きる」を御覧になった会員の方はよく知っておられることですが、映画「なぜ生きる」を何度見ても、真宗の教えはわかりません。ですから、それをいくら解説をしても真宗の教えの話にならないのは当然のことです。

予想1「親鸞聖人降誕会」「真宗の極致」といいながら、蓮如上人主人公のアニメ映画(高森顕徹会長脚本)の解説をする

「蓮如上人大遠忌法要」なら、蓮如上人主人公のアニメについて話をすることはあってもいいかもしれませんが、「親鸞聖人降誕会」なのにそうするのは理屈が通りません。しかし、ここ最近と同様にアニメ映画「なぜ生きる」のシナリオブックからの引用をしつつの話になることになるだろうと思います。

予想2「真宗の極致」といいながら、「また親鸞会館に来て下さい」が結論になる。

「真宗の極致」は、以前の高森顕徹会長の話に出てきた

いまの真宗においては、もつぱら自力をすてて他力に帰するをもつて宗の極致とする(覚如上人・改邪鈔・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P919)

https://bit.ly/2IuRMxU

を根拠として出すと予想されます。もちろん、この改邪鈔の全体の意味の説明はありません。(一 絵系図と号して、おなじく自義をたつる条、謂なき事。)

この「自力をすてて他力に帰する」のが「真宗の極致」という話をするとしても、そこには高森顕徹会長独自の論理があり、会員にもそれはすりこまれています。

本来は、「自力をすてて他力に帰する」の意味は、「自力をすて」(因)→「他力に帰する」(果)という因果関係の話ではありません。「自力の執着を離れた人は、他力に帰した人である」とか「他力に帰する人は、すでに自らの力をたのむこころはない」という説明がされるところです。「自力をすてて」がそのまま「他力に帰する」ことであり、「他力に帰する」そのままが「自力をすてて」の姿であるというものです。

しかし、高森顕徹会長の解説を聞いた会員のほぼ全員は「自力をすてねば、絶対に他力に入れない」と理解をしています。それは、会員の聞き間違いではありません。実際に高森顕徹会長がそのように(または会員がそう思うように)話をしているからです。

そして、高森顕徹会長の論理は箇条書きにすると以下のようになります。おそらくこんな話になるでしょう。

  1. 自力を捨てねば、他力に帰することはできない。
  2. まず、自力を捨てねばならない。
  3. どうすれば、自力を捨てられるか?
  4. ぼーっとしていて自力がすたるはずはない。(チコちゃんもいっている。これも多分今回いいそうなので)
  5. つまりは、真剣に聞かねばならない。火の中わけて聞かねばならない。
  6. では、どこで聞くのか?親鸞会館しかない
  7. また、親鸞会館に来て下さい。
  8. これが、真宗の極致
  9. 降誕会終了

まとめ 「これ以上大事な教えはない」の「教え」は「また親鸞会館に来て下さい」「私の話を聞きなさい」

最近の高森顕徹会長の話は、自身が監修(実際は書いた)した100万部突破の「なぜ生きる」を映画化し、脚本も手がけた映画「なぜ生きる」の解説をしています。
まさに、製作者による映像作品の解説を聞きに会員は、富山県の親鸞会館まで足を運んでいます。熱心な会員は、「親鸞聖人の教えを聞きに行っている」気持ちの方も多いかもしれませんが、現実をみれば「高森顕徹会長が自分の言いたいことを言っているだけ」です。しかも、結論は「また親鸞会館に来て下さい」「私の話を聞きなさい」です。

数年前から、座談会形式となり、讚題をいうことがなくなりました。
以前の法話形式で高森顕徹会長は話の前に常に讚題で、

あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。(御文章4帖15通 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1188)

https://bit.ly/2Z7ty2l

と言っていました。

これは、日付がついた蓮如上人の御文章で最後のものです。最晩年の蓮如上人が、御文に書かれたことは「みなみな信心決定あれかし」です。少なくとも、この讚題を最初に言っている間は、高森顕徹会長にも多少なりとも蓮如上人のお言葉は耳に残ってはいたと思います。私も、親鸞会講師部員であったときは、いつもこの讚題をあげてから話をしていました。自身の信心が無信心であっても「みなみな信心決定あれかし」の気持ちでなんとか話をしようと思ったものです。それくらい、この蓮如上人のお言葉は、話をする前にいうと影響が大きいものでした。

そして、この御文章の最後はこう結ばれています。

あひかまへてあひかまへて、この一七箇日報恩講のうちにおいて、信心決定ありて、われひと一同に往生極楽の本意をとげたまふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

報恩講の間にどうかみなさん、信心決定してともに往生極楽の身になって頂きたいと書かれています。
讚題もいわなくなった高森顕徹会長の話は、最後の歯止めもなくなり、ただ「自分の作品の話」「自分の話」になりました。


この記事を読まれた会員の方は、話の細かいところではなく「存命のうちにみなみな信心決定あれかし」と高森顕徹会長が言っているかを思い出してみて下さい。「存命のうち」といっても「このこの一七箇日報恩講のうちにおいて」と言われています。つまり、法座ならばその法座で。報恩講ならこの報恩講で、降誕会ならこの降誕会で信心決定して下さいと書かれています。


「ただ今救う」が阿弥陀仏の本願ですから、それについて話をすれば「ただ今救われて下さい」となります。それを「また来て下さい」では話が全く違います。


最後に、高森顕徹会長は「時間がない」を理由に「また次回」「またご縁があったら」とよく言います。「ただ今救う」の話が「時間がないから話ができなかった」「また次回」ということは、ありえないことです。今回もそのように「時間がないので、また次回」と言ったら「この一七箇日報恩講のうちにおいて、信心決定ありて」の気がないと思って下さい。


元号も変わるときですから、心機一転で親鸞会以外の話を聞いてみて下さい。
さよなら平成、さよなら親鸞会、さよなら高森顕徹会長。

追記 映画「歎異抄をひらく」は5月24日公開

tannisho.jp