親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「親鸞会のいう二種深信、堕ちるに間違い無し、助かるに間違いなしと同時に知らされる、は誤りだと思いますが、そのへんを上手に解説して頂けると幸いです。」(PAさんのコメント)

安心問答に頂いたコメントですが、内容が親鸞会教義についてなのでこちらに記事として書きます。

PA

親鸞会の言う二種深信、堕ちるに間違い無し、助かるに間違いなしと同時に知らされる、は誤りだと思いますが、そのへんを上手に解説していただけると幸いです。

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2022/08/12/173000

PAさんが言われるように、私も親鸞会で「二種深信」の説明として「堕ちるに間違いなし、助かるに間違いなしと同時に知らされる」と聞いてきました。

詳しくは、親鸞会公式サイトに「こんなことが知りたい」から転載した記事が載っていますので、そちらから引用します。全文をご覧になりたい方はリンク先を参照下さい。

 金輪際助かる縁のない自己に、ツユチリほどの疑心もなくなったことを機の深信といい、そんな者を必ず助けるという、弥陀の本願にツユチリほどの疑心もなくなったのを、法の深信といいます。これを機法二種深信といいます。

 分かりやすくいえば、己の罪深きことと、弥陀の恩徳の高きことを、ハッキリと知らされたことをいいます。
(略)
堕ちる者が助かる者、助かる者が堕ちる者、全く反する二つの深信が、同時に相続する不思議な信心ですから、「絶対矛盾的自己同一」と言った哲学者がありましたが、親鸞聖人は不可称・不可説・不可思議の信楽(信心)と讃仰されています。

浄土真宗講座|二種深信とは、どんなことか|浄土真宗 親鸞会

※魚拓
【魚拓】浄土真宗講座|二種深信とは、どんなことか|浄土真宗 親鸞会

親鸞会説明の特徴・二心並起・矛盾した二つの深信が二種深信

そもそもの話として、二種深信とは他力信心のすがたをあらわされたものです。二つの別々のものがあるといわれたものではありません。

にしゅじんしん 二種深信
(略)
機の深信は衆生(機)の本来のすがたを信知することであるから信機ともいい、法の深信は阿弥陀仏の救いのはたらきを信知することであるから信法ともいう。この二種の深信は他力信心のすがたを示し、二種一具の関係にあって別々のものでも矛盾するものでもなく、一つの信心の両面をあらわしている。なお、二種の心が並び起こるものである(二心並起*1)としたり、前後関係がある(前後起)とする異安心に対し、安心論題に「二種深信」が設けられている。(浄土真宗辞典

この浄土真宗辞典に書かれているところでいう「二心並起」が親鸞会でいう二種深信の特徴です。
二つのものがらを想定しなければ、親鸞会でいう「全く反した二つの深信が、同時に相続する不思議な信心」とはいいません。

「堕ちる者が助かる者、助かる者が堕ちる者」について

公式サイトに「堕ちる者が助かる者、助かる者が堕ちる者、全く反する二つの深信」とあります。私も、親鸞会でこのような説明を何度も高森顕徹会長より聞いていました。
ある時の法話で、高森顕徹会長はアシスタントに
「堕ちるに間違いなし、助かるに間違いなしとなったらどんな顔するかね。君ちょっとやってみなさい」
といって、表情を作るようにいいました。
その時のアシスタントは少し考えて
「こういう時どんな顔すればいいのかわからないの」とは言わず、困った顔をしていました。
高森顕徹会長は、「分からないだろう」と言って満足げに笑っていました。

こういうやり取りは、何度もあり高森顕徹会長の法話を聞いていた当時の私を含めた会員は、「二種深信は二つの矛盾したものが同時に起きるのだ」と理解をしていました。


それに加えて、黒板に縦の線と横の線の図を書いて、その理解を固定化させていました。縦の線と横の線というのは、最新刊の「歎異抄ってなんだろう」にも掲載されているので転載します。

歎異抄ってなんだろう」P165

この板書は、かつてはほぼ毎回のように高森顕徹会長が書いていたものです。
二種深信の話になった時は、以下のような言葉がよく書かれていました。追加の文字は、縦表記ができなかったので横書きにしています。

親鸞会で二種深信を説明する時の板書


この板書をみて、また親鸞会会員の多くは「信心」とは「心」のことであり、「どんな気持ちになるか」という風にしか考えません。そうなると、「私の心の中に「堕ちる私」と「助かる私」が同時にあるのか」と理解をします。しかし、それではどこまでいっても「私がどうなるのか」というだけの問題で、助ける法はどこかにいってしまいます。「堕ちる者(機)」と「助かる者(機)」が二つある説明をしているにすぎないので、確かにこれならば「矛盾」といわざるをえません。


また、この板書を見て話を聞いているとどうしても右端の人間が、縦の線で↓と↑に分かれてしまう図なのでそう理解します。いわば、「矛盾した二つの機の深信」をするのが、親鸞会でいうところの二種深信です。そういう意味では、「二心並起」では有るものの、「機の深信が二つある」というのが、親鸞会の二種深信ということになります。


本来の二種深信は、公式サイトの言葉を使えば「堕ちる者が助かる者」ではなく、「堕ちる者を助ける法」であると深信することです。

信心は「仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし」

親鸞聖人は、信心について

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(顕浄土真実信文類 (末) - WikiArc浄土真宗聖典註釈版P251)

といわれ、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」と聞いていることを信心と言われました。


阿弥陀仏が本願を生起されて、その結果どういう本願を建てられ(本)そして現在どのように私を救うために働いておられるのか(末)を聞くことが、「仏願の生起本末を聞く」ということです。それを聞いて疑心のないことが聞いたことであり、信心です。


二種深信は、他力信心のすがたをいわれたものですから、上記の言葉を使うと「仏願の生起本末を聞いて疑い無い」ことをそのまま表されています。
言い換えると、「自力では助からないもの(生起・機)とみられて本願を建てられ(本)南無阿弥陀仏となって私を救ってくださる(末・法)」と聞いて疑心あることないのが、他力信心のすがたです。この仏願の生起本末の中に、本願のめあてである機と本願の救いの働きである法があります。機を抜いての法も、法を抜いての機もありません。機と法は別々にはなりませんので二種一具といわれます。

信機(機の深信)はそのまま信法(法の深信)

「疑心あることなし」とは、機にも法にも自らあれこれ計らうことがないことをいいます。
自らの力では生死を離れることができない(出離の縁有る事無し)からこそ、阿弥陀仏の仰せにまかせる(彼の願力に乗ずる)ことができます。反対に、阿弥陀仏にまかせられないというのは、自分の力でなんとかしようという計らいがあるからです。
真宗用語では、自らの力ではどうにもならないと、自分を見限ることを「捨機」といいます、そして本願力にまかせることを「託法」といいます。
見出しの言葉で言えば、「信機」は「捨機」、「信法」は「託法」となります。「捨機」のままがそのまま「託法」となりますので、二つの別々のものが同時にあるとか、矛盾するということはありません。


親鸞会公式サイトの表現を使うと「(自力では)堕ちる者が(本願力で)助かる者」と言っているので矛盾はありません。
これを仮に「矛盾」というのであれば、「本願力でも堕ちる者が本願力で助かる」とか「自力では堕ちるものが自力で助かる」という場合に限ります。

まとめ 矛盾がないものを矛盾と思うのは法が抜けているから

親鸞会での二種深信が、「堕ちる者が助かる者、助かる者が堕ちる者、全く反する二つの深信」となるのは、黒板の図に象徴されるように「この私はどうなるのか」と言うことばかりを問題にし、助ける法が抜けているからです。


阿弥陀仏の本願」とか「仏願の生起本末」「名号」という言葉は出てきて耳にしていても、それが私を助ける法であることは耳から抜けているのが多くの親鸞会会員です。それは、高森顕徹会長を始めとする講師の話に法が抜けているからです。


「堕ちる私を助ける法がある」と南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いのが二種深信です。
その仏願の生起本末を抜いて「地獄一定と極楽一定が同時に起きる」「借金がそのまま貯金になる」「不可称不可説不可思議の世界」ばかり聞いていれば、矛盾としか思えません。


先に紹介した、高森顕徹会長の法話でアシスタントに聞いたように、「信心決定したらどんな顔するか?」と問われれば、「こういう時どんな顔すればいいのかわからない」となるしかありません。


しかし、本来の二種深信の定義から言えば、そう問われたら「笑えばいいと思うよ」となります。南無阿弥陀仏が私を救ってくださると聞いたら有り難いと表現する方が自然です。「矛盾」とか「全く反する二つのもの」と考えるのは間違いです。

*1:にしんびょうき