親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会における忖度と二種深信は「二つの心が同時に起きる」ものではない件(親鸞会機関紙顕正新聞平成29年4月15日号論説)

宗教法人浄土真宗親鸞会高森顕徹会長)の機関紙顕正新聞平成29年4月15日号を読みました。今回は岡山会館の落慶とその座談会の内容が主なものでした。


論説にまとめた記事が掲載されていたので、それを読んで思ったことを書きます。題名は「『他力の信心を獲得す』とは」でした。

親鸞会では、信心を強調し(最近はそれも話しに出てこなくなりましたが)伝統教団に対して「信心を説かないのは間違いだ」と批判してきました。そして、「二種深信が立たねば真実の信心ではない」と主張します。


確かに、他力信心のすがたを示されたのが二種深信です。ですが、親鸞会の会員の多くは、二種深信について「二つの心が同時に起きる」ものと理解をしています。私も、以前はそのように理解をしていました。
そこで、今回の論説には以下のように書かれています。全体の中の最期六分の一を抜粋して紹介します。

では、何がハッキリするのか。他力の信を獲て明らかになるのは、二つのことである。
信心獲得すると、「私は煩悩にまみれた、金輪際、助かる縁なき極悪人だった」と、真実の自己の姿に疑い晴れると同時に、そんのものを必ず絶対の幸福に救うと誓われた「弥陀の本願」まことだったと疑い晴れる。
この二つが明らかに知らされる「他力の信心」を頂くと、永久に変わらぬ「絶対の幸福」に生かされる。その身になることこそ、古今東西、求めてやまない「なぜ生きる」の答えなのである。(顕正新聞平成29年4月15日号論説より)

親鸞会と縁のなかった人がこの文章を読むと、それほど疑問に思わないかも知れませんが、高森顕徹会長から話を聞いている会員は「二つの心が同時に起きる」という前提でこの文章を読んでいます。もちろん書いている人も同じ理解だと思います。


二種深信について浄土真宗辞典から紹介します。今回は、該当する辞書部分が長いので関係するところを抜粋します。

にしゅじんしん 二種深信
(略)この二種の深信は他力信心のすがたを示し、二種一具の関係にあって、別々のものでもなく、一つの信心の両面をあらわしている。なお、二種の心が並び起こるものである(二心並起“ニシンビョウキ”)としたり、前後関係(前後起)とする異安心に対し、安心論題に「二種深信」)が設けられている。

ここでいう「二種の心が並び起こる(二心並起)」が親鸞会会員の多くの理解です。論説でいうと「真実の自己の姿に疑い晴れる」と「弥陀の本願まことだったと疑い晴れる」の二つの心が同時に起こるという理解です。


私が親鸞会にいたころは、高森顕徹会長からこの二種深信の解説を聞く時には「地獄一定と極楽一定の自己が同時に知らされる」と言っていました。その後、種々の批判を受けて上記の論説の内容に変更してきましたが、「二心並起ではない」との説明を会員にしたと言う話は未だ聞いたことがありません。


二種深信とは、一つの信心の姿を機と法に開いていわれたものであって、その内容は一つのことを言われているものです。しかし、この論説からも分かることですが、「真実の自己」と「弥陀の本願」の二つの事が知らされると二つの心が同時に起きるのが親鸞会でいう二種深信です。


元々は、自分の姿が知らされるといっても、自力ではどうにもならないところに、自力をたのむ心がなくなり、本願はそういうものを救うと知らされるところに、本願にまかせた状態になるのです。ですから、二つの心が起きるということはなく、説明上は「一つには」「二つには」とあっても一つのことを言われたものです。


「真実の自己がまだまだ知らされないから救われない」「自惚れているから救われない」と会員が、自分自身で会長の教えを忖度して自分を追い込んでいるのが親鸞会の実情です。

親鸞会における忖度

そんたく【忖度】
〖名〗(「忖」も「度」もはかるの意)他人の心中やその考えなどを推し量ること。推量。推測。推察。(精選版 日本国語大辞典

森友学園問題で、報道で一時よく聞かれた忖度という言葉は、親鸞会によく当てはまるものだと思いました。外部からの批判に対して高森顕徹会長はよく「私はそんなこと言っていない」と言います。それは半分正解で、半分間違いです。


なぜなら、今回の二種深信の説明でも、高森顕徹会長は上記の論説にあるような話はしても、「二心並起は間違いだ」という話はしません。それを聞いた会員は「二つの心が同時に起きるのか」と忖度します。それを外部から批判されると会長は「私は言っていない」「会員の聞き間違いだ」と言います。しかし、正確に言えば「私は(誤解のないような話は)言っていない」です。とはいえ、会の中で絶対的存在である会長が、自信をもって「説き切る」訳ですから、会員はよもや「説明していない部分がある」とは夢にも思いません。聞いた範囲から教えも忖度するのが習慣として身についています。


その中でも、どうしても矛盾する内容に関しては、会長が先回りしてまた「救われたらわかること」「進めば分かる」と言うので、会員また「救われない私があれこれと小賢しいことを尋ねるものではない」と忖度して活動に邁進しています。
外部から見て「なぜ親鸞会会員は高森顕徹会長の話を聞いて疑問に思わないのか?」と思う人も多いと思います。疑問は起きるのですが、「そう思うのは自分が未熟だから」と忖度して、まともに会長の教えに向き合わないからです。


各地の会館で今後も落慶座談が行われていますが、もしこのエントリーを読まれた会員で、質問する機会のある方は、今回の内容を尋ねて見て下さい。種々疑問を抱えたまま、活動だけするのが阿弥陀仏の救いへ向かっていると思うのは間違いです。


ただ今救う法を聞いて救われて下さい。