親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

高森会長の話はなぜ分かったようで分からないのかを顕正新聞論説から解説(顕正新聞平成29年10月15日号を読んで)

宗教法人浄土真宗親鸞会富山県射水市)には、親鸞会館があり毎月1回高森会長の法話が行われています。そこには、全国から会員が会長の話を聞く為に足を運んでいます。私もかつては、親鸞会館に足を運んでいました。

高森会長の話の内容は、大きく分けると二つあります。

  1. 分かったようで分からない話。
  2. 途中で終わり、続きは次回という話。

今回は、1番目の「分かったようで分からない話」について書きます。
分かったようで分からない話というのは、仏教の話を聞いた人の中にはしばしば聞かれる感想です。それはなぜかと言えば、例えば仏教でいう「空」の解説で「有でも無でもない」と聞けば、多くの人はそう思います。そういう所から「仏教の教えは深いものだ」とか「凡夫の智慧では分からない」と思ったりもします。
しかし、高森会長の話にはそれは当てはまりません。前述の「空」の説明ならば、きちんと説明はされた上で分かりませんが、高森会長の話は説明が説明になっていない話をしているからです。言い替えると、「何を言っているか論理的に分からない話」をしているので会員にとっては「分かったようで分からない話」になります。とはいえ、それは会員やこれから会員になろうという人にとってのことで、一般の多くの人が聞くと「何をこの人は言っているのか分からない」話になっているのが高森会長の話です。

今回は、その例として顕正新聞の論説から一部引用して解説をします。
親鸞会の機関紙である顕正新聞は、毎月二回(1日と15日)発行されています。その中で「論説」は、最近の高森会長の法話、座談会、講師部講義などで語った内容を要約したものがほとんどです。いわば、会員に推奨されている「聴聞録」の要約を親鸞会が公式にしているようなものです。限られた文章でまとめられているだけに、高森会長がどのような話を、どういう展開でしているのかがよく分かります。

しかし、この「論説」は顕正新聞の中でもあまり読まれない記事になっています。その理由として私が親鸞会にいたころは親鸞会弘宣局では、「文字ばかりで写真がない記事は読まれない」というように捉えられていました。その後、親鸞会を辞めて、また現在でもそうですが、論説が読まれない理由はそれ以外にあると思っています。
その一番の理由は「何が書いてあるか分からないから」です。もちろん日本語で書いてあるので、音読することはできるのですが、論説の多くは読んでも何が書いてあるかわかりません。そのため、会員も読まなくなっしまいます。なぜ読んでも分からないかは、前にも書いた通り高森会長の話が「ちょっと何を言っているかよく分からない」からです。その話を要約した論説は、やはり「ちょっと何を言っているかよく分からない」記事になります。
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以下、顕正新聞平成29年10月15日号論説「全人類の希望の灯炬」から抜粋して解説をします。

「難思の弘誓は難度の海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」(教行信証総序)世界の光と仰がれる親鸞聖人のみ教えを一言で表現した言葉が平生業成である。
(略)
親鸞聖人の主著『教行信証』はまさに平生業成の書であり、それが冒頭の一説に、ズバリ明言されている。
(略)
弥陀の大船に載せられると同時に、無明の闇が晴れて、明るく楽しい絶対の幸福に生かされるのである。
ここで親鸞聖人は、古今東西の人類の苦悩の根元を、無明の闇と断言されている。
無明の闇とは何か。後生(来世)暗い心であり、死んだらどうなるか、ハッキリしない心である。
(略)
死を眼前にして、果たしてどんな希望がありうるか。
(略)
ただ絶望あるのみ。
しかし親鸞聖人は、弥陀の光明だけが、苦悩の根元である無明の闇を破り、絶対の幸福にする智慧の太陽だと断言されている。
この無明の闇さえ晴れれば、いつ死んでも往生一定、光明輝く浄土に生まれ仏になれることがハッキリするのだ。
天に二日なし。
阿弥陀仏の本願(光明)開顕された親鸞聖人のみ教えは、まさに人類の真の希望の灯炬なのである。(K)

全文を御覧になりたい方は、画像を参照して下さい。

こうして論説をさらに抜粋して読んで頂くとわかると思いますが、平生業成の話なのか、無明の闇の話なのか、親鸞聖人は「人類の希望の灯炬」といいたい話なのかがよく分かりません。
普通の話というのは、言いたいことと、その理由が書いてあります。ところが、今回に限らず論説はだいたいのところ、最初に書いてあることと、最後に書いてあることがつながらないものがおおいです。その証拠に、文章の全体に「なぜなら」「というのは」「つまり」「よって」などというような接続詞が殆どありません。つながっているかどうかよく分からない短文の羅列というのが正直な印象です。ですから、一段落だけなら文章として読めるものが、前後のつながりなく幾つも羅列されると、一体なんの文章なのかがわからない状態です。

実は、高森会長の話というのはこのような構成になっています。一つのたとえ話や、出してきた語句の説明だけを聞くと、それ自体間違っていないような気がしますが、全体として話がつながっていないので「分かったようで分からない」「ちょっと何言っているか分からない」という話になってしまいます。

顕正新聞の論説は、よくも悪くも高森会長の話をそのまま要約して編集をしないので、結果としてと高森会長の話の「分かったようで分からない」を見事に文字化しています。

ここまで書いた記事を読まれた親鸞会会員には「そんなことはない。高森先生の話はとても分かりやすい。」とか「真実を説き切っておられるのは高森先生だけだ」と言われる方もあると思います。私も、以前はそう思っていた頃があるのでお気持ちはよく分かります。
しかし、高森会長は「ちょっと何言っているか分からない」話を、「とても分かりやすい」話だと思わせるだけの技術をもっています。そのため熱心な会員ほど、会長の意図する通りに信じていまいます。ですが、よくよく思い出してみて下さい。聞いている時は「よく分かった」と思っても、一度法話が終わると「一体何の話だったのか?」と思ったことはなかったでしょうか?


信心の沙汰をしましょうと支部の会員で法話の後に集まってみても、「どの順番で話が進んだか」「どんな根拠が出たか」「あの語句の説明はどうだったか」という記憶の答え合わせに終始したことはないでしょうか?
しかも、どれだけその記憶を正確に文字に残してみても「結局何の話だったのかが記録に残っても心に残らない」ということはなかったでしょうか?


とどのつまり「また高森会長の話を聞きなさい」「必死で活動しなさい」以外に、何の話だったのかは心に残らないことが多いのが実感ではないでしょうか?

私が会員の頃は、「何の話だったのかよく分からない」ことがあった時は「自分が真剣に聞いていないからだ」と、自分の責任だと思っていました。また、一般に高齢者と言われる年代の会員の方が「私は高森先生の話を聞いても、聞いてる時は頷いているんだけど、話が終わると頭から抜けてしまうんです」と言われるのを、「体力的に富山まで長距離移動をして一日話を聞くのが難しいのだから無理もない」と思っていました。
しかし、それはここまで書いてきた通りで、「何の話だったか残らない」のは、聞いている人の真剣さや体力の問題ではなく、単に高森会長の話がよく分からないからです。


突き詰めれば、高森会長自身に「分かってもらいたいこと」がないからということになります。
今回の論説で言えば、繰り返しになりますが、平生業成がいいたいのか、苦悩の根元の話がいいたいのか、親鸞聖人は「人類の希望の灯炬」と言いたいのかが不明です。
仮に平生業成の話なのだとしても、「ではどうすれば平生業成の身に救われるのか」の話がありません。
「苦悩の根元」だとしても、無明の闇を破るのが阿弥陀仏の力だということは書いてありますが、結局どういうことで無明の闇が破れるのかという話がありません。
親鸞聖人は「人類の希望の灯炬」だと言いたいとしても、それまでの前述の記載が意味がわからないので、なぜそうなるのかがわかりません。


言ってしまえば、スローガンはあっても実態がない、話はあっても救いはない、教えがあるようで語句説明のみで自分にとっての救いがないというのが高森会長の話です。


結論としては「分かったようで分からない」どころではなく、「救いがあるようで救いがない」のが高森会長の話です。
「高森会長の話がよく分からない」という会員の方は、真面目に高森会長の話を聞いている証拠です。「よく分かる」と言う人は、いわゆる「得手に法を聞いている」人です。
「最初はよく分かる話だと思っていたけれど、最近の高森会長の話はよく分からない」と感じられている会員の方は、高森会長の話を正確に聞いた結果なので、もう親鸞会を離れる時が来たと思って間違いありません。

阿弥陀仏の本願は、親鸞会以外で聞くことはできます。ただ今救う法をただ今救う法と聞いて救われて下さい。