親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「年頭所感・高森顕徹会長自分で書いていない説」から見える親鸞会の未来

顕正新聞(親鸞会機関紙)2019年1月1日号を読みました。毎年1月1日号は、高森顕徹会長の年頭所感が掲載されています。高森顕徹会長が顕正新聞に記名ありで寄稿することは年に一回のことなので、会員は「高森会長からの年賀状」と思って読んでいます。
しかし、ここ10年以上は著作からの引用がほとんどとなり、受け取った会員も「これはあの本のあの場所だ」と思いながら読んでいました。

今回の年頭所感を私もブログを書くにあたって何度も読みましたが、これほど言いたいことが分からない文章も余りないだろうというのが正直な感想です。その理由を考えて見てわかったのは、おそらくこの文章は高森顕徹会長が書いたものではなさそうだという点です。

以下、2019年年頭所感を書き起こしましたので、見ていきたいと思います。

年頭所感
念仏者は無碍の一道なり 高森顕徹
 有名な『歎異抄』第七章冒頭の言葉である。
 先ず親鸞聖人は、どんな人を「念仏者」と言われているのか明確にしておかなければならない。
 「念仏者」と聞くと、“南無阿弥陀仏”と称えているすべての人と思えるのだろうが、そうではないのである。
 科学的には同じ涙でも“うれし涙”あり、”悲し涙””くやし涙”など、さまざまあるように、同じように“南無阿弥陀仏”と称えている人でも、称え心は決して同じではない。
 夜中に通った墓地で、魔除け心で称える念仏もあろうし、肉親と死別して悲しみ一杯の心で称える念仏もあろう。声優が台本にあるから仕方なく、仕事で称える念仏もあるだろう。
 同じく念仏を称えていても、「念仏は、どんな善よりも優れていると言われているから」、ぐらいに思って称えている念仏者もあれば、「どんな善よりも念仏は、ケタ違いに大きな善根だ」と信じて、ひたすら称えている念仏者もあるのだ。
 その称え心を最も重視されたのが親鸞聖人である。聖人は、いま挙げたような心で念仏を称えている人を総括して、自力の念仏者として詳述されているのである。
 それに対して、阿弥陀仏の不可思議の願力に救われた嬉しさに、称えずにおれない念仏者を、他力の念仏者となされ、自力の念仏者と峻別されている。
 親鸞聖人が念仏者と言われるのは、つねに弥陀に救い摂られた、他力の念仏者であって、自力の念仏者ではない。
 それは「第七章」に「念仏者」と言われた直後に、「信心の行者」と言い換えられていることでも明白であろう。
 ゆえに『念仏者は無碍の一道なり』の聖人のお言葉は、自力の念仏者のことではなく、他力の念仏者を仰ったものである。

このあたりは、「歎異抄をひらく」P234 〜235のほぼ転載した内容でした。参考のために、該当箇所を転載します。
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 では、一切が障りにならぬ、無碍の一道とは、どんな世界であろうか。
 世に『歎異抄解説書』には、色々説かれる。「妨げるものは、何一つ無い絶対の道」「何ものも障りにならぬ、ただ一つの通路」などと解説されているが、納得する人は多くないようである。
 その直後に『罪悪も業報を感ずることあたわず』と、『歎異抄』にも言われているので、「念仏者は、罪悪感から解放されるのだ」「念仏称えれば、悪い報いを受けずに済むのだろう」と思う人さえあるようだ。
 全く無碍の一道の誤解である。


『歎異抄』の「無碍の一道」を正しく理解するには、まず仏教の究極の目的は“浄土往生”であることを確認しておかなければならない。
 されば“障りにならぬ”と言われているのは、“浄土往生の障りにならぬ”ということである。
 たとえば、弥陀に摂い取られた人は、どんな罪悪を犯しても“必ず浄土へ往けるという金剛心”は、まったく影響がないから、「罪悪も業報を感ずることあたわず」と言い切られている。いかなる罪業も「必ず浄土へ往ける大安心」を揺るがす障りにはならないことを「念仏者は無碍の一道なり」と高らかに宣言されているのである。
 では、なぜ念仏者は罪を犯しても往生の障りにならないかと問えば、
「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに」(『歎異抄』一章)
つき上げられて出た聖人の声だった。
 平生の一念に弥陀の救いに値えば、どんな罪悪を犯そうとも、浄土往生を危ぶむ不安や恐れは小波ほども無くなる、無窮の本願力に敵する悪業力はないからである。
 山崩れても動ぜぬ、不可称・不可説・不可思議の世界だから、聖人は「無碍の一道」と喝破されたのである。
 同時に我々が、どんなに励んだ善行の結果も及ばぬ、天地に舞う「無碍の一道」だから、
「諸善も及ぶ事なし」(第七章)
「念仏にまさるべき善なし」(第一章)
と道破されているのである。

上記の部分は、「歎異抄をひらく」P231〜P233のほぼ転載でした。
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 まさに『念仏者は無碍の一道』なのだ。終生変わらぬ胸つまる慈愛の遺訓を拝誦し、弥陀の本顔聞き開き、永遠に輝く年としよう。

願力無窮にましませば
罪悪深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず
        (正像末和讃)
(意訳)
 どんなに罪が重くとも
 いかに乱れた心でも
 限りなき弥陀の願力は
 見捨てず必ず救い摂る

無明長夜の灯炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ
        (正像末和讃)
(意訳)
 闇の深さに泣くでない
 罪の重さを悲しむな
 弥陀広大の威神力
 苦海の人生、渡す舟
           合掌
(親鸞会機関紙顕正新聞2019年1月1日号より)

最後の部分だけは、「歎異抄をひらく」の転載ではありませんでした。しかし、これが「高森顕徹会長の年頭所感」といわれると首をひねる会員も多いのではないでしょうか?
読んで頂いて分かるように、何が言いたいのかがよく分かりません。


今回は「歎異抄をひらく」のP231〜P235の内容を、あえてP234-P235→P231・P232-P233と並び替えて、最後に新年らしい付け足しをしたものです。しかも、もともとの文章(本にして約5ページ弱)のものを半分に分けてかつ前後に入れ替えたためにかえって何を言いたいのかわからない文章になっています。教義的なことを除いても、もともとのそれなりの量の文章を前後を入れ替えるとやはり意味がわからなくなるものです。


最後の和讃の付け足した部分も前の文章との関連はなく、印刷した年賀状に最後何か書き加えたような感じです。ここの部分だけは、高森顕徹会長が書いたようです。


感想を言えば「南無阿弥陀仏」と書いておけば、批判ブログは文句言わんだろうといわんばかりの内容です。それ以外に読んでも意味がわかりませんでした。加えて言えば、「悪をも恐れず」と強調しますが、自身が悪を行っている自覚があっての強弁かとも思いました。

今回の顕正新聞・年頭所感から見える親鸞会の今後

今年の年頭所感を見ても、高森顕徹会長がゼロから書いた文章でないことは分かります。弘宣局のスタッフが作ったものでしょうが、高森顕徹会長の著作から転載して加工した文章を作ったのが今回の年頭所感です。


スタッフは「高森顕徹会長の著作から出した文章なら間違いはないだろう」と前後を変えて新規の文章のような体裁を整え、それに高森顕徹会長の作文(おそらく映画「歎異抄をひらく」のシナリオからの転載)を付け加えて「高森顕徹」の名前で年頭所感を書きました。恐らく多くの会員が読んでも「高森顕徹会長のお言葉」という以上のメッセージは何も伝わらなかったと思います。「高森顕徹会長の言葉」という以外に、何の情報もない文章が並んでいてもそれで成立してしまうのが、親鸞会の現状だということです。


今回の年頭所感から今後、高森顕徹会長が親鸞会館の法話に立たなくなった未来が見えてきます。
誰が話をしたとしても「高森顕徹会長の著作や過去の講演」の引用に終始し、その内容がどれほどよく分からないものであったとしても、話す側は「高森顕徹会長の言葉だから間違ってはいないだろう」と思い、聞く会員も「高森顕徹会長の言葉だから間違いないだろう」と思います。話す内容は、高森顕徹会長よりもさらに理解が出来ないものになっていくでしょう。ただ「高森顕徹会長の言葉を聞く」だけが目的化するのが未来の親鸞会です。


もちろんそうならずに、浄土真宗の教えが説かれ、会員も聞くことができるのが望ましい未来ですが、こういう文章を年頭所感に掲載されているようでは、なかなか難しいと感じました。