ひとまず最終回となった「親鸞会への誤解を正す」シリーズ
宗教法人浄土真宗親鸞会講師の添谷亮介氏がYoutubeLiveで親鸞会に対する批判に答える配信を続けています。
2025年03月末でいったん最終回となりました。
理由は、Youtubeの仕様の変更のため、ある時期からの添谷講師のYoutubeLiveは左右が反転した状態のものだったので、スケッチブックに書いたものも読みづらい状態になっていました。そのため、左右反転したものを動画編集ソフトで元にもどして、かつ字幕をつけたものを今後更新していくとのことです。この間は作業の時間をとるためにliveはやらないとのことでした。
字幕作業が終わったら、今後はLIveではなく、動画を公開する形式にもどすそうです。
そこで、2025年01月08日から始まった「親鸞会への誤解を正す」シリーズも完結したので、この記事ではこれについて書きます。
「親鸞会への批判」は「誤解である」
「親鸞会への誤解」というのは、数ある親鸞会に対する批判は「誤解」であるという立場からの主張です。
特に中心となるのは「なぜ親鸞会は善を勧めるのか」についてでした。
添谷講師によれば「親鸞会は善をしたら助かると主張してる。金集め人集めが目的だ。それはまったくの誤解である。親鸞会は善をしたら助かるなどと言ったことは一度もない。会員や元会員でそんな風に感じる人もいるようだが、それは誤解であり聞き誤りである」というものです。
私はこのシリーズが始まった頃は「またいつものごまかしか」と斜めに見ていましたが、今回のシリーズを全部聞いてみると、確かに「誤解」であったことが分かりました。
「善の勧め」は「心構え」「姿勢」に過ぎない
結論からいうと、「親鸞会の善の勧めは救いと関係ない。心構え・姿勢として言っているに過ぎない」でした。
これだけ読むと、特に昔の親鸞会しか頭にない人は理解に苦しむと思います。以下、添谷講師のYoutubeから解説をします。
www.youtube.com
(親鸞会への誤解を正す⑫ひとまず最終回「なぜ修善をおろそかにしてはならないのか?」・浄土真宗の法話 by 親鸞会講師 添谷亮介)
この回は最終回ということで、今までのまとめとして「親鸞会はなぜ善をすすめるのか」に結論を出すということで始まりました。
テキストとして「本願寺なぜ答えぬ」の110ページから読みながら話が続きます。
「聞法に対してどのような姿勢であるか」を問う

「仏法は聴聞に極まる」
なら、親鸞会は、なぜ、諸善も勧めるのか、の疑問に答えておかねばならぬ。…(略)
くだらん欲に、引きずり廻された、クタクタの心身を法座に運んで、カスの時間と、カスの心身で一体、なにを、聞こうとしているのか。
どんなことが解決できる、と、いうのだろう。(略)
(「本願寺なぜ答えぬ」より・聞法以外に、獲信の因縁はないか(110ページより)33:11〜
成否いかんということではないでしょうか。そういうこれまでの自分の人生において力を入れてきたことと比較したときに私たちが聞法に対してどのような姿勢であるかということを、まず問われているわけですね。
(親鸞会への誤解を正す⑫ひとまず最終回「なぜ修善をおろそかにしてはならないのか?」より)
ここでは、「聞法の姿勢」を問題にしています。親鸞会では確かに、よく「あるべき姿」とか「そんな姿勢で」とか「そんな心構えで」ということをよく聞きました。
「善の勧め」というのは、この「姿勢」の問題のようです。
「聞法できないときの用心は、どうあるべきか」
その後は、こう続きます。
善知識の洪恩を憶えば、獲信の因縁(宿善)を求むる用心は、一刻として、おろそかには、できないはず。
“仏法は聴聞に極まる”と、分かっていても、どうにも、聞法できないときの用心は、どうあるべきか、重大関心事と、ならざるを得ないだろう」(「本願寺なぜ答えぬ」より・諸善も獲信の因縁なり(113ページより)44:11〜
ここに用心という言葉を何度か用いておられますが
用心というのは火の用心の用心ですね。訓読みすれば心を用いるということです。心をかけるということでしょうね。心がけるというか。
蓮如上人は時節到来ということは用心をもしてその上に時節到来ということがあるのだと宿善開発ということがあるのだよと、果報は寝て待てということではなく私たちが聞法やお勤めに励む用心があってこそ、時節到来その宿善が開発するということがあるのだよと御一代記聞書に教えておられるその用心ということですね。(親鸞会への誤解を正す⑫ひとまず最終回「なぜ修善をおろそかにしてはならないのか?」より)
ここでも「用心」と言う言葉を使っています。そして善については「おそろかにしてはならない」としています。
「宿善」などの言葉を変えつつも、そのスタンスは「おそろかにしてはならない」と「用心」することです。
親鸞会は「修善は往生の資助になると言ったことは一度もない」
だからこそ親鸞会は、修善は獲信の因縁(宿善)とは、いっても、往生の資助になる、と、いったことは、一度もない。
(「宿善になる」というのは、「往生の資助になる」、ということでは、断じてない。きき誤ってはならないところ)
(「本願寺なぜ答えぬ」より・諸善も獲信の因縁なり(115ページより)
(略)
親鸞会は「自力の善の積み重ねで、信心獲得できる」などと、主張したことは一度だってない。(同118ページ)(略)
01:03:04-
浄土真宗のこの私たちの求道において修善をおろそかにしてはならないと勧めているのであって、なんだかねこう善を強調しているみたいに聞こえるのかもしれませんけれども、
強調しているように聞こえるとすれば、善はしなくてもいいとか念仏だけ称えていればいいんだ。善はしなくてもいいんだなんてことを言う人がいるもんだから。それが浄土真宗だと思っている人がいるもんだから。
いえいえそうではありませんよ。修善をろそかにしていてはなりませんよと諸善も勧められているのが、浄土真宗ですよということを強調せざるを得ないのであって、わざわざね善を強調しているということではないんですよ。
ここらね、そろそろ気づいていただきたいところなんですけれどもね。
(略)
01:06:12-
そんなね何をするとかしないとかね。
そういうことを問題にしているのではなくってあくまで信疑決判なんですよ。捨自帰他なんですね浄土真宗は。
そのことに腰が据えられれば頑張っちゃいけないんですねとかね。救われたいと思っちゃいけないんですねとかね。お礼の気持ちと思ってお勤めしないといけないんですねとかね。
そういうおかしな論は迷いは出てこなくなると思います。
ということでね何とか分かっていただければと思いつつ本日で一応この誤解を正すシリーズは終えたいと思います。
なぜ親鸞会は善を勧めるのかの答えは「求道の上でおろそかにしてはならないから」と言って終わっています。あくまで信疑決判だから、善をするとかしないとかは関係ないと言っています。
当時の本願寺派からの批判は、「信疑決判であるにもかかわらず修善で助かるかのように勧めるのは間違い」というものでした。
それに対する当時の親鸞会の回答は、「善で助かるなどと言ったことは一度もない」「修善は獲信の因縁(宿善)とは、いっても、往生の資助になる、と、いったことは、一度もない」でした。
「獲信の因縁」と「往生の資助」について
私は、親鸞会にいたころから「獲信の因縁」と「往生の資助」の違いがよく分かりませんでした。私の修善が「往生の資助」になるといえば、浄土真宗ではありません。しかし、「獲信の因縁」と言われると、やはり何か関係あるのだろうかと考えます。
私だけでなく多くの会員はそのように思ってきたと思います。「往生の足しにはならないけれども、何か関係があるらしい」から勧められる「善」を実行してきました。ただ、実態は「何か関係あるらしい」どころか「これが間違いなく往生の資助になる」と思っている会員は多いと思います。
「獲信の因縁」とは「心構え」「用心」
今回あらためて添谷講師から
01:11:37-
もう一度心をむなしくして親鸞会の書籍などを繰り返し、あの精査してみられたらどうですか?私が本願寺派のその教本を精査しているみたいに。
とあったので、「本願寺なぜ答えぬ」を読んでみると分かったのは、添谷講師が主張するように、親鸞会が善を勧めるのはあくまで「おろそかにしてはならない」という「心構え」のことに過ぎないということでした。
本願寺との「宿善論争」の構図
「本願寺なぜ答えぬ」にはいろいろと書いてありますが、核心部分はこの記事にもあげた部分です。
構図としては、本願寺派が「修善で助かるように教えるのは間違い」と批判します。
それに対して高森会長は「真剣に聞けという心構えを言っているのだ。それが悪いのか」と反論したという形になっています。
以前から「本願寺なぜ答えぬ」は、まともに反論になっていない本なので本願寺の学者もさじを投げてしまったと聞いています。それを親鸞会は「私たちは本願寺に宿善論争で勝利した」と言っています。
それは、このような構図になっているからです。
「何によって助かるのか」という議論のはずが、親鸞会の主張は「心構え」の話にすり変わっているからです。
確かに「心構え」や「あるべき姿」というのは、浄土真宗の教えを聞いている人にとっても大事なことです。しかしそれは「心構え」「姿勢」の問題であって「救済」の話ではありません。
高森会長は確信犯ですり替え反論したと思いますが、この本を読んだ会員は「親鸞聖人の教えに善の勧めがあるかないか」についての議論だと思いました。
実態は「本願寺ー阿弥陀仏の救済に善は不要」「親鸞会ー日頃の心構えとして善は勧める」でした。
当時は「真剣な聞法」が強調された
以前高森会長は、聴聞会場で居眠りをしている参詣者にチョークを投げて起こしたりしていました。そのように「真剣に聞く姿勢」をとても重要視していました。

「報恩講に信をとれ!」が合い言葉になっていたほどです。
確かに「ぼーっと何も考えずに座っておればよい」とは私も思いません。聞くべきものは聞いて帰らねば何をするために法座に足を運んでいるか分かりません。
「真剣な聞法」を強調していた今から30年以上前の親鸞会では、「一座一座が真剣勝負」という空気がありました。その中では「真剣に聞くにはどうすればよいか」「聞法の時間以外にどういう心構えであるべきか」も強調されました。
「真剣な聞法」から「あるべき姿勢」へ
私が入会したころも「親鸞学徒としてあるべき姿」とか「どんな気持ちで法座に来ているのか」ということが常に話の中心だったと思います。親鸞会講師の会合のかなりの割合は「私たちはどうあるべきか」という話と、「どうあるべきか、だから活動頑張ろう」というものでした。
それを聞いた会員は、常に「こうあるべき」という「心構え」の話を聞かされるので、「こういう心掛けで活動していけば救いに近づく」と考えるのは自然の流れです。
しかし、今回添谷講師がYoutubeで語ったように「善で救われると親鸞会が主張」しているのは「誤解」でした。
あれほど盛んに「善をせよ」と勧めるのは、「心構え」「用心」「姿勢」の問題にすぎなかったのです。
今更と思っても、今こそ考える時
これを読まれて何か思うところのある会員の方は多いと思います。
実際現場の講師の話は、どう聞いても「善をするのが救いの早道」としか話をしていませんでした。
しかし、あたらめて振り返ると、確かに「姿勢」「あるべき姿」の話が殆どで、「助かる法」の話ではなかったのが親鸞会です。
今更そんなことを言われてもと腹を立てる人もあるでしょうが「では何によって救われるのか」を一度真剣に考えて見てください。添谷講師がいうように「善をするとかしないとかは関係ありません。
さらに言えば、「心構え」をどれだけ強くしても法を聞かねば救いも何もありません。