親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

高森顕徹会長の「名号・信心・念仏」の説明で気になったところ(顕正新聞2020年03月15日号より)

親鸞会の機関紙・顕正新聞2020年03月15日号を読みました。以下思ったことを書きます。
ここ最近の親鸞会機関紙に多いのは、海外の記事と「高森先生と学徒との対話」です。
海外に関しては、東南アジアでこれだけ聞く人が増えていますというものです。
一部紹介しますと、以下のようなものです。

法悦あふれる東南アジア
兒玉英志海外本部長が、2月14日から約1週間、東南アジアへ赴いた。フィリピンでは、二千畳に参詣した親鸞学徒(大学教授)の招請で、大学構内での仏教講座を開催。ミャンマーでは一人一人に後生の一大事を伝え、聞法の原点を確認した。両国の学徒は、さらなる真摯な聞法を誓っている。(顕正新聞2020年03月15日号より)

国内に明るいニュースがないので、東南アジア進出に力を入れている様子がわかります。


もう一つが「高森先生と学徒との対話」です。
これは、2月から始まったこれまでのネット中継の拡大版です。これまでは、ネット中継はあったものの限られた取り扱い人がいる場所でしか中継を受信することはできませんでした。それが、この「高森先生と学徒との対話」では会員であれば誰でも手元のスマートフォンで受信できるというものです。

インターネットで配信される座談会「先生と学徒との対話」は、3月18日に加え、2日と11日にも追加された。新型コロナウイルスの拡大で集会が自粛される中、ご教導はネットで世界へ届けられ、各地の法友は、これも善巧方便と、さらに聞法に突き進んでいる。(同上)

第一回が2020年02月19日(水)に一時間開かれました。その後続けて行われています。新型コロナウイルスで各地で行事が中止になるなか、高森会長の話を聞く機会は減るどころか会員にとっては増えています。

高森顕徹会長の「名号・信心・念仏」

そこで、2月19日(水)の「高森先生との対話」では「名号・信心・念仏」の話がでたようです。

法友通信より (2月19日先生と学徒との対話)
それらの中で、最も大事な仏語を3つ選ぶとなれば、「名号」「信心」「念仏」と教えていただきました。
(同上)

最近にしては珍しく真宗の言葉についての話だったので会員の反響もよかったのか、これについて続けて話をしています。
2020年03月08日ネット中継での高森顕徹会長の話も「名号・信心・念仏」の話でした。
内容については、すでに他の方のブログでも言及されています。
hiun.cocolog-nifty.com
shingikensho.blog12.fc2.com



顕正新聞・論説ではそれに関連したことを書いているのですが、気になったところがあるのでそれについて少し書きます。全文については、記事の最後に掲載していますので気になる方はそちらを御覧下さい。

論説 親鸞聖人の勧められた信心
(略)
六字の名号には、この恐ろしい難病を治し、必ず浄土へ往ける大安心に救う、超絶無類のお働きがあるのだ。その大妙薬を丸貰いして、絶対の幸福になったことを、「信心」というのである。一日も早く信心獲得して、報謝の念仏を称える身になってくれよ。親鸞聖人は今も、励まし、押し出してくださっている。

この部分が気になりました。


特に「絶対の幸福になったことを『信心』」というのである」の箇所です。
こう書くと、親鸞会会員の方は「どこがおかしいのか?」と不思議に思われると思います。実際に、論説の執筆者も不思議に思いながら会長の話をそのまま文字起こししたのかもしれません。
会員でない方に説明をするとこの論説というのは、直近の高森会長の話を要約したものです。なかば公式の高森会長の話の記録(要旨)となっています。上記の部分も太字になっているところからも会長の話をそのまま文字起こししたものと思います。


一般にも、話したことをそのまま文字起こしして本や記事にできることはありません。それは、話をするときは話す相手やそれまでの話の流れで追加で話をしたり、話が抜けることがよくあるからです。そのため、「文字起こししても本になるくらい」というのは理路整然とした講演の形容詞として使われるくらいです。しかし、高森顕徹会長の話の場合は本になるどころか文字起こしすると余計に分からなくなるような話です。それは過去に高森顕徹会長の話の聴聞録を書いてきたので分かります。聴聞録を書いて少しすると、高森顕徹会長が何を言いたかったのが思い出せないくらい話が首尾一貫していません。特に近年はその傾向が強くなっています。


高森顕徹会長から話を聞いてきた中で「絶対の幸福になったことを『信心』というのである」と聞けばあまり不思議に思わないかもしれませんが、これだけ取り出してみるとこれはおかしな文章です。

「絶対の幸福=信心」の違和感

「絶対の幸福=信心」というのは、親鸞会会員(親鸞学徒)ならば当然のこととして認識しているので違和感はないかも知れませんが、この「=」が間違いです。

今回の論説でいえば、
「この恐ろしい難病を治し、必ず浄土へ往ける大安心」が「絶対の幸福」であり「信心」だということになります。


しかし、実際は、「信心を獲たら、この恐ろしい難病が治り、必ず浄土へ往ける大安心を獲る」ということになります。
記号を使えば
○「信心→難病が治る、必ず浄土へ往ける大安心」
×「信心=難病が治る、必ず浄土へ往ける大安心」
となります。


「真実信心」の本来の意味

信心については、「歓喜」「慶喜」を親鸞聖人は真実信心の異称として用いられることはありますが、大部分といいますか本来の意味は、疑い無く本願名号を聞き入れたことをいいます。

しんじつしんじん 真実信心
(略)
「信巻」には「疑蓋間雑なきがゆゑに一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり」(浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P231)とあり、信楽ともいわれ、無疑心のことであって、疑心なく本願の名号を領受した心をいう。これは大行である名号のはたらきが衆生にまさしく至り届いたすがたとされる。
『唯信鈔文意』には「選択不思議の本願、無上智慧の尊号をききて、一念も疑ふこころなきを真実信心といふなり」(浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P702)
浄土真宗辞典

ですから、真実信心を獲たら必ず浄土へ往ける大安心があるという分には何の問題もありませんが、真実信心=必ず浄土に行ける大安心というとおかしなことになってしまいます。


薬の譬えについて

今回の論説で書かれている譬えを使えば、「薬を飲んだ」のが信心で、

薬を飲む

「全快した」は薬を飲んだ結果の話です。(実際は薬を飲まされるのですが)
f:id:yamamoya:20200320055239p:plain
「薬にどんな功徳があるのかという説明」と「薬を飲むこと」と「薬を飲んだ結果どうなった」は別のことです。

「薬にはこんな功徳があるから飲みなさい」「薬を飲んだ結果はこうなるから飲みなさい」と「薬を飲むことを勧める」のが信心を勧めるということになります。
しかし、高森顕徹会長の話では「薬を飲んだ結果はこうなる」「薬を飲まなかったらこうなる」の説明をして「薬を飲む」ことについては全く話をしません。いつも高森顕徹会長が使う言葉を言えば「絶対幸福になったら大安心大満足」「人間に生まれて良かった」「浄土へ往ける大安心」と話をしても、「どうなったらそうなれるのか」という話はしません。


まとめ

高森顕徹会長はたまに南無阿弥陀仏の話をしても、南無阿弥陀仏そのものが私に働きかけ救おうとされている本願力回向の話をしません。
それを誤魔化す為に、「薬を飲む」ことと「薬をのんだらどうなる」ことを同一にすることで、あたかも「薬を飲むこと」を勧めているようにしていることが今回の論説で分かったことです。

ここまで読まれた会員の方は、これまで高森顕徹会長が「薬を飲む」ことを勧めていたでしょうか?それとも「薬を飲んで安心した状態」になることを勧めていたでしょうか?考えてみることをお勧めします。

お知らせ

親鸞会会員の方はネット中継の法話に慣れておられると思います。そこで、近日(3月21日22日)にネット配信の法話があります。
寺に足を運ぶのがハードルが高いという方は、この機会に是非聴聞してください。
note.com



参照 顕正新聞2020年03月15日号論説

論説 親鸞聖人の勧められた信心
(略)
蓮如上人が明言されているように、親鸞聖人が九十年のご生涯、勧められたことは「信心」一つだった。
それは他宗教でいう信心とは全く異なる、無上の信心である。
では浄土真宗で説かれるのは、いかなる信心か。その信心は「名号」「念仏」と密接な関係にあるから、単独で意味を知ることはできない。
それらの関係を平易に例えれば、「名号」という「薬」をのんで、「全快」したのを「信心」という。高熱が続き咳が止まらず、強い倦怠感に襲われていたのが、「名号」の特効薬の力で平熱になり、咳も治まり完治した状態を「信心」といわれるのである。
難病で死を覚悟した人が、新開発の治療薬で救われたら、薬を作った研究者、またその薬をのむように勧めてくれた医師に礼を言わずにおれなくなる。そのお礼に当たるのが、口で称える「念仏」である。
ここで薬に例えた「名号」とは、大宇宙最高の仏である阿弥陀仏の創られた「南無阿弥陀仏」のことであり、「六字の名号」といわれる。弥陀が、計り知れぬ年月のご苦労の末、名号を完成してくだされたのは、すべての人が重篤な病で苦しんでいるからである。
その病名を、「無明業障の恐しき病」と蓮如上人は仰っている。「無明」とは、死んだらどうなるか分からない、後生暗い心をいう。
新型コロナウイルスの発生で、世界中が戦々恐々としている。
「死ぬかもしれぬ」という恐怖は、何ものにも勝ることを、まざまざと見せつけられる。その最も嫌な「死」に、全人類は刻一刻と近づいているのだ。
たとえウイルスの感染を逃れても、死を免れることはできない。では、死んだらどうなるのか。お先真っ暗で、皆目、見当がつかない。
どれだけ考えても分からないので、死を忘れようと努めているが、百パーセント確実な未来に目をつぶり、後生の断崖に突っ走る人生に、何の安心があろう。
「人間に生まれてよかった」という満足もなく、心に影がなくならないのは、「無明業障」という病にかかっているからである。

六字の名号には、この恐ろしい難病を治し、必ず浄土へ往ける大安心に救う、超絶無類のお働きがあるのだ。その大妙薬を丸貰いして、絶対の幸福になったことを、「信心」というのである。
一日も早く信心獲得して、報謝の念仏を称える身になってくれよ。親鸞聖人は今も、励まし、押し出してくださっている。

(太字原文ママ