Peing-質問箱-に頂いた質問です。親鸞会に関することなので、こちらに回答を書きます。
親鸞会は自分の心から阿弥陀仏の本願に対する疑いが全く無くなった事を信心と言っていますが、浄土真宗では自分の心を問 | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように書きました。
親鸞聖人が「疑心あることなし」といわれる「疑い」は、「自力心」のことを指しています。
その意味で、阿弥陀仏の本願を聞いてあれこれと自力心を挟むことはなくなります。
ただ、親鸞会の「信心」の定義は、実は定まっているようで定まっていないのが現状です。
それについては、ブログに書きますので参照下さい。
親鸞会における「信心」の定義
親鸞会の公式サイトで「信心」について、以下のように書かれています。
「他力の信心」とは、弥陀の本願力で絶対の幸福(往生一定)に救い摂られ、自力が廃って「本願まことだった」と疑い晴れた心をいう。
親鸞聖人の説かれた「信心」とは
こちらでは、質問された方が書かれたように「疑い晴れた心」を信心と定義しています。
また、別の所では
六字の名号には、この恐ろしい難病を治し、必ず浄土へ往ける大安心に救う、超絶無類のお働きがあるのです。その大妙薬を丸貰いして、絶対の幸福になったことを、「信心」というのです。
親鸞聖人の勧められた信心
名号を頂いて「絶対の幸福になったこと」を信心としています。
その他にも、親鸞会では「ハッキリするのが信心」とか「地獄行きと極楽行きが同時に知らされる不可思議な世界」といったりしています。
その意味では、親鸞会では「信心」を指す説明がいろいろとあり、そのどれもが問題がある内容となっています。
結局誰も信心が何なのか分からないのが親鸞会の信心
私も親鸞会にいたのでよく知っていますが、親鸞会で言われる「信心」は「ハッキリする」というのが特徴です。
しかし、何がどうハッキリするのかについては「火に触ったより明らかに知らされる」とか「地獄一定と極楽一定が同時に知らされる」など、とにかく自分の心の内容についてのものが多いです。
そのため「こんな心になったのが信心」という前提から、「救われたらハッキリする」ので「救われない限り分からないのが信心」という理解をします。
「疑い無い」のが信心か、「本願を聞いて疑い無い」のが信心か
問(28)
弥陀の本願の名号を聞くとは、どんなことか。親鸞聖人のお言葉と、その根拠を示せ。答(28)
○「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。「きく」というは、本願をききて疑う心なきを聞というなり。また「きく」というは、信心をあらわす御法なり。(一念多念証文)
(親鸞会教学聖典8号)
この一念多念証文のご文によると、「本願をききて疑う心なきを聞という」とされ、その「きく」が「信心をあらわす御法なり」と書かれています。
いわゆる「聞即信」といわれるように、「聞」がそのまま「信心」をあらわすというのが、親鸞聖人のいわれる信心です。
言い換えると「疑う心なき」を信心とはいわず、「本願をききて疑う心なき」が信心だということです。
しかし、親鸞会会員の多くは「高森顕徹先生から阿弥陀仏の本願は聞いているので、あとは『疑う心なき』になるだけだ」と思っています。そして、「どうすれば私の心から疑いがなくなるのだろうか」と悩んでいる人も多いです。
しかし、上記のご文にあるように「本願をききて疑う心なき」を「聞」というのですから、「本願をききて」と「疑う心なき」を切り離して考えるのは間違いです。「本願を疑い無く聞いている状態」をもって「聞」というのですから、言い換えると「本願を聞いてあれこれこちらからの意見を挟まない」のが「本願をききて疑う心なき」状態です。
「自分の心から本願に対する疑いが全く無くなるという現象などあると思われますか」について
質問箱のお尋ねについて書きますと、「本願を聞いてみると、本願にあれこれいう心はない」という意味で「本願に対する疑いが全く無くなる」ということはあります。
ただここでいう「疑い」というのは、自力の心のことですから、「ただ今助ける」という本願を聞きながら、自分の力を宛て力にして、また助けにして何とか助かろうという心はないということです。
一般にいう「疑い」という意味で「本願についてあれこれ不明な点がある」というのは、相変わらずあります。言い換えると、「分からない」という状態から「分かる」状態になるということではありません。