ネット上で「親鸞会」と検索すると、親鸞会作成のサイトや親鸞会批判サイトが出てきます。その中で、親鸞会よりの僧侶という立場で書かれているブログがあります。それが以下のものです。ikiruimiwositte.blog83.fc2.com
親鸞会に長く在籍したことのある人ならば、少なくとも親鸞会教義に親しみをもった人物の作だということはわかると思います。コメント欄で教えて頂き、最近のエントリーを読んでみました。
すると、今迄の親鸞会批判に対する反論や親鸞会への擁護についてのエントリーばかりだったのが、上記の2015-05-27のエントリーから突然自身の信仰告白が二つ続いていました。
リンク先を読まれれば全文読めます。私が読んだ感想を一言で言うと、「親鸞会的三願転入」で救われたという人がいたら、いかにも言いそうな信心だなというものです。
親鸞会の会員の方への忠告ですが、上記のエントリーとほぼ同じことを言い出す講師部員がいたら、ほぼブログの作者と見て間違いありません。なぜなら、こんな信心を、他力信心だと表明する人は親鸞会関係者以外にはいないからです。
一部引用しますと
わが身は、弥陀に救われて、往生浄土疑いなし。
http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-282.html
一息切れれば蓮の台で仏になるとは何たる一大事。
この方は、一息切れた蓮の台がわかるようです。こういうと親鸞会会員の方では「何が間違っているのか」と思われる方もあると思います。
親鸞聖人が教えられた信心とは、
「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。
http://goo.gl/cUGMrz
(一念多念証文)
のことです。あくまで「如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」であって、「私が」蓮の台で仏になると自覚することでも、無間地獄の釜の底へ堕ちることを自覚することでもありません。
阿弥陀如来が、どのように仰せであるかを聞き入れたこと、南無阿弥陀仏を聞いたことを信心というのであって、私がどうにかなったことをもって信心だというのは間違いです。
ここからわかることは、「親鸞会的三願転入」は「阿弥陀如来の〜〜」とはいいながら、その実は常に自分中心でものを言っていることです。
例えば「私の自惚れ心があるから救われない」というのは、その最たる例です。自分の「自惚れ心」が本願力より強いと思っているからこんなことがいえるのです。
そんな人が信心を告白すると、「自分がどうなった」ということばかりで、阿弥陀如来の仰せは一言も出てきません。