親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

高森会長の話を必死に取り繕う顕正新聞論説(平成29年12月15日号を読んで)

顕正新聞平成29年12月15日号読みました。
以下気になったところを書いていきます。
今回の論説は、平成29年11月26日の高森会長の話の内容を要約したもののようです。
実際の高森会長の話については、他の方のブログで言及されているのでそちらをご欄下さい。

高森会長の話を忠実に要約するはずの「論説」ですが、今回はそうはなっていないようです。というのは、他のブログで言及されたような高森会長の「阿弥陀仏の本願を信じなさいとはどこにも教えられてないし、そんなことを口が腐っても言ってはならない」について一言も書いていなかったからです。さすがに親鸞会弘宣局としては、明らかに親鸞聖人のみ教えに反する高森会長の発言は、そのまま載せることはできなかったようです。その点では、弘宣局のみなさんの「本当の親鸞聖人のみ教えを明らかにする」という心意気は感じました。

以下、気になった部分を引用します。全文は以下の画像からご覧ください。
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 まさしく、弥陀の本願は「聞く一つで、どんな人も絶対の幸福に救う」大誓願がなのである。
 他宗教の「祈れ」「信じよ」とは、隔絶している。我々が「どうすれば」と考える余地など全くない。救いはただ「弥陀の本願を聞く一つ」である。
 ゆえに善知識方の教導も一貫して、「本願を聞け」とゆるぎない。
二千畳をはじめ、各地の法城は、「本願に疑心あることなし」まで、聞きひらくために建立されたものである。
親鸞聖人の教えが、「聞の宗教」と言われるのは、「一実、円満の真教、真宗のこれなり」の本願成就文の教えだからである。


今回の論説を読んで、親鸞会弘宣局が高森会長が話した内容について長い言い訳を読んでいるような感じがいたしました。実際に「阿弥陀仏の本願を信じなさいとはどこにも教えられてないし、そんなことを口が腐っても言ってはならない」と言うのは、相当印象の強い言葉なので、論説を書いた人がそれを聞いていないと言う事は考えられません。


ここで一般紙ならば、内閣の言った発言についていろいろと苦言を呈するところでありますが、顕正新聞はそのようなメディアではないのでそれは期待できません。


それよりも、高森会長が親鸞聖人に教えに反したことを言ってしまったことについて「違うんです。本当に言いたかった事はこういうことなんだよ」と言うことを一生懸命会員に書いたのがこの顕正新聞の論説だと思います。


おそらくこの顕正新聞の論説は、各地の支部の会合で集まって読まれたのではないかと思います。親鸞会はこのように高森会長が口を滑らせて間違ったことを堂々と言った場合なかったこととしてきました。

ただ今回の高森会長の話について火消しに躍起になるあまり、却って高森会長の話の特徴を色濃く反映したのが今回の論説であるとも言えます。といいますのは、今回は聞くことが大事だということをものすごく強調して書いているのですが、この短い文章の中でどれだけ読んでも聞くことが大事と言う以外に何をきいたらいいのかと言うことについては全く書かれていないからです。

例えば、論説の中に以下のように書かれています。

その本願成就もに、皆の救いは「聞其名号 信心歓喜」と明らかである。
顕正新聞論説より)

しかし、論説でその後、上記の文を解説したのが、以下のものです。

まさしく、弥陀の本願は「聞く一つで、どんな人も絶対の幸福に救う」大誓願なのである。
顕正新聞論説より)

となっています。
読まれた方はわかると思いますが、「聞其名号」が「聞く一つで」になっております。ここが親鸞会の特徴のよく表れているところだと思います

その結論としては、

「本願に疑心あることなし」まで聞きひらくために建立されたものである。

とあるのですが、ではどうすれば「本願に疑心あることなし」まで聞きひらくことができるのかについて、何を聞くのかということについては何も書かれていないのはこの論説と高森会長の話の特徴です。


つまり高森会長の話は、本願を聞けとは言いますが、何を聞くのかについては一切触れないと言うことです。
その意味で、高森会長の言いたいことがより明らかになったのが今回の論説だと思います。