親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会会員が考える「疑い」とは何か?(親鸞会脱会手記-3年間の苦闘の記録を読んで)

親鸞会脱会手記が2022年04月26日に以下で公開されました。
yukuhashi.hatenablog.com

私は13歳で「浄土真宗親鸞会」という団体に出会い、そして16歳で脱会しました。

現役会員も、元会員の人にもぜひ読んで頂きたい内容です。全文は、リンク先を参照下さい。


内容そのものは、読んでいただいた通りです。
今回記事に書くのは、その中で作者が親鸞会教義を短くまとめて書かれている部分について考えたことです。
私もそう思っていましたし、ここが引っかかって親鸞会に留まり続ける人もいるので、それについて書きます。

4, 救われる方法

じゃあどうやって信心決定すればいいのか? それにはとにかく正しい仏教の教えを真剣に聞き続けるしかない。善をするのも教えを真剣に聞くためにはやったほうがいい。

そうやって聞いていくとあるとき阿弥陀仏の光明が心のなかに届いて、阿弥陀仏の願いに対するあらゆる疑いが一瞬で消える。

これが <絶対の幸福> であり、そうなった人は必ず浄土へ往生できる。
親鸞会脱会手記 -3年間の苦闘の記録- - 生きるのがつらい中学生/高校生へ。

上記の引用中特に「あるとき阿弥陀仏の光明が心のなかに届いて、阿弥陀仏の願いに対するあらゆる疑いが一瞬で消える」について書きます。

親鸞会の救済観

この「阿弥陀仏の願いに対するあらゆる疑いが一瞬で消える」に親鸞会の救済観が凝縮されています。

親鸞会では、「疑いなくなったのが救い」というのが、どこか曲がって理解されています。
しかし、親鸞会の「教学聖典」に出てくるお聖教の言葉そのものは間違ってはいません。

一例を紹介します。

親鸞会教学聖典より
2号
問(23) 二種深信を記せ。

答(23)
○一には決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す。(機の深信)
○二には決定して、「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と、深信す。(法の深信)

3号
問(23) 信心獲得すると、弥陀の本願にツユチリ程の疑いもなくなると教えられた蓮如上人のお言葉と、その根拠を示せ。

答(23)○これ更に疑う心露ほどもあるべからず。(御文章)

ここで「深信」については、「疑心ある事ない」ことだと親鸞会では繰り返し教えられます。私も高森会長から「疑心ある事ない」は、「もう二度と出てこない事であるから、ただの無いとは全く違う」と聞いていました。
また、「ツユチリ程の疑いもなくなる」についても、何度も聞いてきました。

ですから、親鸞会会員の多くは、「救われたらスッキリハッキリする」「ツユチリ程の疑い無くハッキリ救われる」「驚天動地の体験」などなどと聞かされてそのように理解をしています。

「疑い無い」と「あらゆる疑いが一瞬で消える」は何が違うのか?

ここまで読まれた方は、「信心=無疑心」だから、「疑い無い」「ツユチリ程の疑い無い」のどこが問題なのか?と思われる方もあるでしょう。
ところがよく考えると親鸞聖人が「疑い」といわれるものと、親鸞会会員(全部とはいいませんが)考えている「疑い」は実はものがらが違っています。

表にするとこのようになります。

阿弥陀仏
またはその救いがあること
すべて他力による
親鸞聖人 信じる 疑う
親鸞会会員
(全部ではない)
疑う 信じる

ですから「疑い無い」とか「疑い無くなる」の対象が異なります。

親鸞聖人が「疑い」と言われるのは、「仏智疑惑」であって「仏そのものの存在を信じない(疑う)」ことではありません。全て他力による救いというものを信じきれずに、自力による手助けを信じることを「疑う」と言われました。これは浄土門内の人も、聖道門の人も同じです。仏門に入っている以上、「阿弥陀仏をそもそも信じていない人」はいません。

それに対して、いろいろと異論はあると思いますが、親鸞会会員は、「全て他力による救い」については「信じて」います。「そういうものだと信じて疑ってない」と言ってもいいです。また、地獄へ落ちるということも信じています。
ところが、「阿弥陀仏とその救いそのもの」については「疑って」います。言い換えると「信じきれない」というのが実感です。

親鸞会会員にとって「阿弥陀仏」は「教えの上でいなければならない」ものであって「信じている」ものではありません。ですから、「信心」とか「疑い無い」と聞いても「阿弥陀仏を信じられるようになったこと」と理解しています。そうなるには「信じるに足るような体験」をするのが一番「信じられること」だろうと想像をするので、「スッキリハッキリの救済体験」があるはずだと考えますし、「一念で自力が死ぬ体験」や「地獄一定と極楽一定とが同時にハッキリ体験」をしたり「不可称不可説不可思議の世界を知覚」するように考えます。


確かに、真宗の教えを抜きに「そんな体験」をすれば、確かに阿弥陀仏とその救いを信じることはできるでしょう。しかし、そのような「疑い晴れた」ことは、信心とはいいません。

阿弥陀仏を信じるために求道する

親鸞会では「我々には信じる心も無い」とか「無眼人・無耳人」の話を聞かされています。
ですから、自分自身が阿弥陀仏やその救いを信じていないことに違和感を感じない人も多いです。逆に「信じている人」を見ると「それは自力の信心だ」と思ったりもします。


そこで親鸞会で聞いている上であらゆる疑問は「阿弥陀仏が分からない」という一点に集約していくので、「その疑いさえ晴れれば全てOK」という思考になります。

しかし、先の表にも書きましたが、親鸞聖人が「疑心自力の行者」と戒められた人に、「阿弥陀仏」を信じていない人はいません。そもそも中世の念仏行者で「阿弥陀仏」「阿弥陀仏の救い」をそもそも信じていない人はほとんどいないと思われます。
「疑う」のは、「全て他力による救い」です。そのため「わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふ(末灯鈔2」ことを、(疑心)自力と教えられました。

その「疑い」が、南無阿弥陀仏を聞いて疑いないのが信心と言われます。

別の「疑い」と戦う親鸞会会員

阿弥陀仏を信じられない(疑う)から、救われないと思っている親鸞会会員は、その「疑い」を晴らすために日夜努力をしています。「あるとき阿弥陀仏の光明が心のなかに届いて、阿弥陀仏の願いに対するあらゆる疑いが一瞬で消える」ことを目指して真剣に聴聞をしています。
しかし、「自分で信じよう」としても「阿弥陀仏を信じる」ことはできませんので、「あるとき阿弥陀如来の光明が心の中に届く」か「何かの体験」をする以外の手段は考えられず、真剣に聞く事を続けるために親鸞会に留まります。

親鸞聖人や蓮如上人から「疑いを捨てよ」と聞いても、上記にあげたような「そもそも阿弥陀仏を信じられない疑い」はどれだけ聞いても晴れません。
仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」なのは、「全て他力であることの疑い」であって「そもそも阿弥陀仏を信じられるかどうかの疑い」ではありません。

私が阿弥陀仏を信じられるか信じられないかは、極論すれば問題にならない

阿弥陀仏が信じられないから助からない」「阿弥陀仏を疑っているから助からない」と親鸞会会員は思っていることを書いてきました。これについては、私自身も過去はそのように考えていました。ある意味私の実体験でもありますが、当時の多くの会員やその後脱会した人と話をしてそのように考えている人は決して少なくないと感じています。


しかし「私の心が阿弥陀仏を信じられるかどうか」という問題は、「私の心の変化」に過ぎず、それで救いがどうこうなるという問題ではありません。
すでに阿弥陀仏が本願を建てられ、その本願が成就して私に南無阿弥陀仏とよびかけられています。この南無阿弥陀仏の仰せにまかせるかどうか、従うかどうかが「疑い無い」と言われるところです。


今私が信じられるかどうかというのは、南無阿弥陀仏の仰せにまかせてから考えてください。「あるとき阿弥陀仏の光明が心のなかに届く」ことを待たずに、ただ今称えられている南無阿弥陀仏を本願招喚の勅命と聞いてください。ただ今救うの仰せにただ今救われます。