親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「煩悩と疑情」を混同させて、会員を迷わせる高森顕徹会長(親鸞会機関誌顕真平成26年10月号を読んで)

顕真平成26年10月号を読みました。以下、気になったところについて書きます。

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今回は、「法友通信(9/2 講師部講義)信機と信法は一念同時」を読んで気がついた事を書きます。
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歎異抄』第9章で親鸞聖人は煩悩と疑情の違いを明らかになされている。阿弥陀仏に救われても踊躍歓喜の心がなく、早く極楽へ往きたい心のないのが煩悩であり、その煩悩具足の者を必ず極楽往生させるという弥陀の本願を疑っている心が疑情である。
 お聞きした法友の手紙から、煩悩と疑情の違いをハッキリ知らせていただこう。(Q)(顕真平成26年10月号より)

この概要自体も、おかしなところがありますが、親鸞会会員が読んでもあまり疑問に思う人はないと思います。私も、最初ここだけ読んだときは、今回は「煩悩と疑情の違いの話があったのか」と思っていました。しかし、それに続く参加者の手紙を読むと「一体何の話ですか?」と大きく疑問をもつ内容でした。

以下、その手紙から抜粋していきます。強調部分は本文ママ

「煩悩具足と思えない心=疑情」ですか?

自分が煩悩具足と思えぬ心 講師部 H
(略)
「そんなひどい自分ではない。救われたら喜びいっぱいになり、一日も早く極楽へ往きたいと胸躍るでしょう」としか思えません。これは、自分が煩悩具足とは毛頭思えない心であり、それこそ疑情なのだとよく分かりました。

私が在籍していたころも、高森顕徹会長の疑情の説明は聞くたびにいつも違っていました。現時点では、「煩悩具足と思えない心=疑情」となっているようですが、これは違います。


疑情とは、「阿弥陀仏の本願を疑う心」「仏願の生起本末を聞いて疑う心」です。上記の手紙にある「煩悩具足」と言う言葉を使うなら、「煩悩具足の私をただ今救う本願を疑う心」が疑情です。


もし、「煩悩具足と思えない心=疑情」とするなら、阿弥陀仏の本願は「お前は煩悩具足だと知らせるだけ」の本願となります。それでは何の救いもありません。
また、別の言い方をすれば「煩悩具足と思えない心=疑情」とすると、「仏願の生起本末の、『生』だけ聞いて疑う心」=「疑情」となります。これも疑情の定義と合いません。


つまり、高森顕徹会長のいう「疑情」は「阿弥陀仏の本願を疑う心」ではなく、「仏願の生(生起本末の生だけ)を聞いて聞いて疑う心」だということです。


この論理を進めていくと、次の手紙の内容になります。

「救われるまで疑情はわからない」

重い7文字「煩悩具足の凡夫」 講師部 K(弘宣局)
(略)
その「煩悩具足の者を極楽へ往生させる」という弥陀の本願となると「欲楽」しか分からぬ者は到底分からず、その本願を疑う疑情も知りえません。
煩悩も疑情も、真仮の水際の一念で、同時に知らされるのだと分かりました。
また、その一念へ導いてくださる三願転入を知らねば、『歎異抄』9章も、一切のお聖教も読めないと、教えていただきました。

前述の論理を進めて行くと、「煩悩具足と知る」までが救われるまでの道程であり、ゴールとなります。なぜなら、「煩悩具足と分からないのが疑情」なのですから、救われる(疑情が晴れる)とは「煩悩具足と分かる」ことだからです。


そうなってくると、以前、親鸞会で推奨されていた山口善太郎さんの言葉はどこに行ってしまったのかということになります。

宿善には厚薄あり|親鸞会と本願寺の相違点

聞けよ聞けよの、お勧めが 耳に聞こえりゃ、機に合わず
少しも聞く気の、ない奴に 不思議に聞く気が、起こりそめ
御座を重ねて、聞くものの 聞いたばかりじゃ、味がない
味わいどころか、苦しくて 無き疑の、起こり出し
他力の、十八願は
信じて来れと、仰有るが 信じにかかれば、自力なり
頼んで参れと、仰有るが 頼みにかかれば、また自力
まかせまかせと、仰有るが まかせば自力の、押しまかせ
(略)
(上記 親鸞会弘宣局作成サイトより抜粋)

ここでも「無き疑の、起こり出し」とあります。Kさんの手紙の内容では「疑情」は「真仮の水際の一念」でしか知られないので、救われる前に「無き疑の、起こり出し」ということはあり得ないことになります。


「疑情も、真仮の水際の一念で、同時に知らされるのだと分かりました」と書かれている弘宣局担当のKさんは、サイトを修正した方がいいのではないでしょうか?
それとも、顕真掲載の手紙は、会長へのリップサービスでしょうか?
ついでに言えば、この山口善太郎さんは「他力の、十八願は信じて来れと、仰有るが 信じにかかれば、自力なり」と書かれています。親鸞会で言う全ての人は19願から20願を通るという三願転入との関係はどうなったのでしょうか?山口善太郎さんは「他力の18願は信じて来れ」と聞いて「無き疑い(自力)」が出てきたと言われています。その自力が捨てられないで苦しんだということが上記の文章に書かれているのですが、親鸞会の会員は、何に苦しんでいるんでしょうか?


私が以前親鸞会にいたころは「どうしたら自力が廃るのか?どうすれば他力になるのか?」と苦しむのが「求道」だと聞いていました。



また、こういった話を聞いて、「自分は間違っていた」と「間違っていたと分かったふり」をする人が多いのが親鸞会会員に多く見られる傾向です。

「煩悩は分かるが、疑情が分からない」と思っていたのは間違いでした?

煩悩も疑情も分かっていない 特専部 H(医師)
煩悩と疑情を教えていただき、「煩悩は分かるが、疑情が分からない」と思っていましたが、どちらも分かっていないことが知らされました。
(略)
100%煩悩の自分と思えない心が疑情であり、疑情一つのために無始より迷いつづけていると教えていただきました。

「煩悩は分かるが、疑情が分からない」というのは、言い替えると「仏願の『生』の部分は何度も聞いたから分かるけど、「起本末」を聞かせてください。それを聞かせて頂く機会がないので疑情だけはわかりません」ということです。それは素直な感想だと思います。


なぜなら、高森顕徹会長の法話は「仏願の生起本末」で言えば「仏願の生」にいたるまでの話が95%です。「起本末」の話は年に一回あるかないかで、それも中途半端な上、間違っています。


それを長年聞いてきた特専部のH医師は「仏願の生」で止まっている話に対して「早く続きを聞きたいと思うのは間違いでした。また一から(因果の道理から)聞かせて下さい」という内容です。しかし、言い替えると「いつかは仏願の生起本末をまともに聞けるものと期待していましたが、それを期待している私が間違っていました」と、高森会長に謝罪をしつつ、要望を書くという長年の会員らしい手紙です。しかし、親鸞会ではそれくらいしか言えないのが実態です。


親鸞会と縁のなかった方のために説明しますと、建て前上は、「高森会長の法話中に、疑問や質問があれば誰でも自由に発言できる」ことになっています。しかし、法話中に発言をする人は殆どいません。まして、「もっと仏願の生起本末をきちんと話して欲しい」とは、とても言えないという空気があります。



具体的な例をあげると、ここ最近は「因果の道理」の話が続いています。会員の多くは「因果の道理は大事だ」と思いつつも、「信心決定に直接関係あることが聞きたい」「仏願の生起本末が聞きたい」「自力他力の水際を聞きたい」と思っています。しかし、テレビ座談会で「因果の道理も大事だと思いますが、私は今日救われたいのです。南無阿弥陀仏の謂れを聞かせてください」という会員はいません。


本心はそうは思っていても、現実の高森会長は「聞きたい話」を殆どしません。そこで、前述したH医師のように、「そう思う自分は間違っていた」と思うしかないのが、会員の実態です。しかし、それで本当に心が晴れているのでしょうか?

今回の話で言えば、前述しましたが「100%煩悩の自分と思えない心が疑情」なら、阿弥陀仏に救われた(疑情が晴れた)ということは「100%煩悩の自分」と知らされるだけです。


それについて、それでも「100%煩悩の自分」と知らされることが大事だという手紙が次に掲載されていました。

「うぬぼれ心を粉砕するのがテレビ座談会の因果の道理」

真実に見向きもしないマヒし切った屍 講師部 O
(略)
私たちのうぬぼれ心を粉砕せんと、テレビ座談会で重ねて、「仏法の本」である「因果の道理」をご教導くださっているのに、アイツのせいだ、コイツのせいだと、「他因自果」だと思っていては、「真実の自己」は知らされないのだと思います。

ここでは「100%煩悩の自分と思えない心」を「うぬぼれ心(慢_煩悩)としています。結局、「100%煩悩の自分と思えない心」が「疑情」なのか「煩悩」なのか分かりません。


仮に「100%煩悩の自分と思えない心」が「うぬぼれ心(煩悩)」とすると、その心がなくなるということは煩悩が減ることになります。煩悩を減らすことが阿弥陀仏の救いとなってしまいます。「煩悩具足のものをただ今救う」本願ではなくなってしまいます。


加えて言えば、最近の高森会長の話は「因果の道理」がずっと続いています。そのことを「仏法の本」だというそうです。「仏願の生起本末」どころか、その話もなく(つまり阿弥陀仏の「あ」の字の話もなく)「仏法の本」こそ聞かねばならない話のようです。しかもそれは、会員の「うぬぼれ心(煩悩)」を粉砕するためのものだそうですから、高森会長は会員に「煩悩を捨てさせるため」に「因果の道理」の話をしているようです。そのように「うぬぼれ心(煩悩)を捨てねば助からない」というは、浄土真宗ではありません。


また、その「うぬぼれ心」は疑情だとするならば、前述した通り「疑情=真実の自己が分からない心」となり、「仏願の生起本末を聞いて疑う心」ではありませんので語義が間違いです。


まとめ

まとめて言えば、「煩悩も疑情も救われるまで君たちには分からないのだから、私のいう因果の道理に従って、廃悪修善の道を突き進め」というのが、この講師部講義で高森会長が言ったことのようです。


それに疑問を持つことは「うぬぼれ心」だから、「真実の自己」が分かるまで「廃悪修善」をせよということです。しかし、それは同時に「教えを知りたい」と思う会員に「教えなんか分かる筈がないだろう。教えが分かるなどと思うのはうぬぼれ心だ」と、会員に「真仮を知る会長」への絶対服従を強いているだけです。


言い換えれば、「質問するな、ただワシのいうことに従え」が高森会長の本心だということです。
教義的なことをいえば、「信機(機の深信)」のあとに「信法(法の深信)」があるようにいうのは、二種深信ではありません。今回の記事を読む限りは、「信機(機の深信)」を求めていき、「信機」のあとに「信法(法の深信)」が立つようにしか書かれていません。


機を疑うのが、疑情に限るとするならば、法に対する疑いはどうなるのでしょうか?それも「機」の話しかしない高森会長の話を聞いている限りは「法」に対する疑いは50年会員を続けていても起きようもないかも知れません。



この顕真を読んで、高森会長の主張はますます会員の「信心決定あれかし」から遠ざかってきたのだと感じました。