前回の記事
shinrankaidakkai.hatenablog.com
に関連して書きます。
親鸞会の機関紙顕正新聞2022年10月1日号の論説に「浄土真宗を覆う十劫安心」が掲載されました。
全文は、親鸞会公式サイトにあるのでそちらをご覧下さい。
十劫安心についていろいろと書かれていますが、最初の「現今の浄土真宗の99.9%は十劫安心の異安心といわれます」という断言は、どこのどなたが「いわれた」のか気になる所です。
伝統教団で全国調査があったという話は聞きませんので、高森顕徹会長がどこかで言ったことと思います。
ただ、この「99.9%は十劫安心の異安心」「相当な学者でも、自覚なしに十劫安心に陥っているのです」といういわば決めつけは、親鸞会を辞めようと考えている人、またはすでに脱会した人に対して大変強い影響を与えています。
「99.9%は十劫安心」→親鸞会を出たら十劫安心以外の人に出会う確率は0.1%?
少なくとも親鸞会の中では「正しい教えを説く先生としての高森顕徹会長がいる」ということになっているので、そこを離れていっても十劫安心以外の人に出会う確率は0.1%だという偏見を植え付けられると、脱会に二の足を踏む人も多いかと思います。加えて、親鸞会では十劫安心以外の人は「体験至上主義の群賊悪獣」と宣伝し、あたかも親鸞会の外には、異安心以外の人はいないかのような印象操作をしています。
実際どれくらいの割合かは私も調査した訳ではありませんが、少なくとも「99.9%は十劫安心」というのは大間違いであることは断言できます。その点で不安に思っている人は、安心して親鸞会を脱会することをお勧めします。
十劫安心とは何か?
浄土真宗辞典では、このように説明がされています。
じっこうひじ 十劫秘事
十劫安心などともいう。十劫の昔に阿弥陀仏が成仏した時、すでに衆生の往生も成就されており、これを忘れないのが信心であるとする理解。真宗における異安心の一。『御文章』1帖目13通、3帖目第8通、2帖目第11通などに批判がある。
十劫安心については、桜嵐坊の仏教部屋で阿部信幾先生の動画が公開されました。詳しくはこちらをご覧下さい。
www.youtube.com
こちらでは、十劫安心(十劫秘事)について、時宗との関係について説明がされています。
関連した内容を、「蓮如教学の研究3・異議論・稲城選恵著 法藏館」より引用します。
(十劫秘事は)重松明久博士によると、時宗の影響によるものと言われる。吉崎の近隣、丸岡町長崎の称念寺を従来看過していたからである。称念寺は既述のごとく北陸一円の時宗の中心道場と言われる。一遍上人の門弟阿真教師の開基と言われる。蓮如上人時代は、全盛時代とも言われている。『一遍上人語録』によると
凡夫往生の本願とせり。此願すでに十劫已前に成就せし時、十方衆生の往生の業は南無阿弥陀仏と決定する。此覚体、阿弥陀仏といふ名にあらはれぬるうへは、厭離穢土欣求浄土のこころざしあらん人は、わが機の信不信、浄不浄、有罪無罪を論ぜず、ただかかる不思議の名号をきき得たるをよろこびとして、南無阿弥陀仏をとなへて息たえ命おはらん時、必聖衆の来迎に預て、無生法忍にかなふべきなり。是を念仏往生といふなり。
とあり、「十劫以前にすでに十方衆生の往生の業は南無阿弥陀仏と決定す」とあり、「わが機の信不信を論ぜず」とある。また、『一遍上人念仏安心抄』によると、
さて信心といふは、凡身を以てはじめて弥陀を信じて往生を願へといふにあらず。十劫正覚の昔より衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定したりと覚悟のすはるを真実信心といふなり。
この文は蓮如上人の『御文章』第四帖八通に類似せる文があるが、全く異なる。(同P63-P64)
この御文章との違いについては、この後書きます。
絶対に十劫安心になりようがないのが親鸞会。その理由
そもそも異安心というのは、全く間違いようがないことを間違って出てきているものではありません。ゼロから作り上げた異安心というものはありません。みなお聖教の特定の部分だけに注目をしたり、あるいは誤解をするところから出てきます。
親鸞会に対する異義・異安心に対する批判は過去からありますが、親鸞会は親鸞会でそれらの批判に対していろいろと「根拠」をもって主張してきた過去があります。
では、十劫安心はどこから出てきたのでしょうか。先の一遍上人の言葉にもありますが、浄土真宗辞典から引くと「十劫の昔に阿弥陀仏が成仏した時、すでに衆生の往生も成就されており」から出てきたものと思われます。
ただ、これ自体は法体成就の機法一体ともいわれるものです。法蔵菩薩として建てられた願が成就して、十劫の昔に阿弥陀仏となられました。南無阿弥陀仏となられて、衆生の往生する働きも成就したというものです。
このことを、親鸞会はほとんど説明しないので、親鸞会では間違っても十劫安心は出てきません。
言い換えると、本願が成就した事によって何が成就したのかということ(仏願の生起本末)を説かないので、そこから派生する十劫安心を大声で批判するのも考えて見るとおかしな話です。
そのため親鸞会会員の多くは、「十劫の昔に阿弥陀仏になられたのは知っているが、実際私が助かる道理としては19願、20願があるので私の往生はまだ完成しているはずがない」と考えます。
もちろん、高森顕徹会長が「会員を十劫安心に陥らない為に、あえて仏願の生起本末を説かない」という人がいたとしても、それはたぶん勘違いです。
機法一体(十劫の昔に阿弥陀仏が成仏(法)した時、すでに衆生の往生(機)も成就されており)から、十劫安心はどのように出てくるのか。
十劫安心はどこから出てきたのかというのは、いろいろと説はあります。浄土宗西山派の解釈から出てきたという説や、時宗から出てきたという説、また禅宗の影響という説など複数あります。
ただ、時宗の一遍上人は、最初西山派で学んでいたので、広い意味で西山派の影響が大きかったと思います。
では、西山派と浄土真宗の異安心がどこで重なるのかというと、西山派の人が書いたのではないかとされている著者不明とされる安心決定鈔の影響も大きいとする説もあります。実際、蓮如上人は安心決定鈔を大変重用されていたので、現在浄土真宗聖典註釈版にも収録されています。
安心決定鈔の機法一体についての誤解
安心決定鈔は機法一体について書かれている本です。往生正覚一体の機法一体について説かれている部分について、「十劫」という時に一体となったのだという間違いから出てきたのが十劫安心という説です。
そのうち一例として紹介します。
かるがゆゑに、仏の正覚はわれらが往生するとせざるとによるべきなり。(略)
かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。(安心決定鈔 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P1383)
ここだけを読むと「仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり」とあります。阿弥陀仏となられたのは十劫の昔ですから、その時に同時に衆生の往生も成就したのだと、知って忘れないのが十劫安心です。
十劫の昔に本願が成就したということと、その後の現在の私が往生するかしないかは、「知って忘れない」ことではなく、聞いて疑い無い身になるかどうかで決まります。いわゆる信心が定まらなければ往生は定まりません。その信心ということを問題にしないので、観念的信仰となってしまいます。
では安心決定鈔には、そのことが書かれていないのかといえばそんなことはありません。先に揚げたご文の直後にはこう書かれています。
仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。(同)
「衆生がこのことわりをしる」というのが、「聞いて疑い無い」ことをあらわしています。信知ともいわれるところです。
このことわりをこころうるを本願を信知すとはいふなり。(安心決定鈔 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P1390)
このような箇所は、読んでも分からないのか、故意に読み飛ばした結果として十劫安心となっていきます。
御文章4帖目第8通について
法蔵菩薩の本願が成就して、阿弥陀仏と成られたことと、私の往生も定まることについて先に御文章4帖目第8通に書かれているといいました。その部分について書きます。
かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。(御文章 (四帖) - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P1179)
最後に「われらが往生の定まりたる証拠なり」と書かれています。蓮如上人は、「往生が(十劫の昔に)定まった」とは書かれていません。また「(未来に)定まる」とも言われていません。
「定まりたる」とは、今現在に定まっているという現在完了の形で言われています。
十劫安心は、「過去にすでに助かっている」という過去に立って信心をいいます。しかし、蓮如上人はただ今現在に往生は定まっているという立場で信心についていわれます。
十劫安心に対する親鸞会の批判(論説より)
弥陀の救いは、今ハッキリします。
平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。平生のとき不定の念(おもい)に住せばかなうべからず(執持鈔)
ハッキリしない信心は、断じて他力の信心ではありません。私たち親鸞学徒は、一念の抜けた十劫安心の誤りを正して、親鸞聖人が明らかにされた往生一定の他力金剛心を、多くの方にお伝えしたいと思っています。(浄土真宗を覆う十劫安心)
親鸞会の十劫安心に対する批判は、「ハッキリするかしないか」が特徴です。
「南無阿弥陀仏が届いたらハッキリする」ということを強調します。
ハッキリするかしないかだけが問題
私は親鸞会を除名になってから、親鸞会の人が外部の人に対する批判はこの「ハッキリするのかしないのか」しかないと言ってもいいと思います。
「ハッキリするのかい?ハッキリしないのかい?どっちなんだい?」という点に拘ります。
少なくとも「ハッキリしない」という信心は、親鸞会では自動的に十劫安心認定をされます。
「とにかくよく分からないけれども救われたら何かがハッキリする」というのが親鸞会のいうところの他力信心です。
ハッキリするかしないかに拘ると「弥陀の御たすけ」を見失う
ハッキリするかどうかに拘りすぎると、一念覚知という異安心に陥ります。ただ親鸞会では、誰も一念覚知している人もいないので一念覚知の異安心でもありません。
正しく言えば「一念覚知がなければならないと思っている人たち」が親鸞会会員です。
しかし、それについては蓮如上人御一代記聞書には以下のように書かれています。
(213)一 おなじく仰せにいはく、心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり。少しも心得たると思ふことはあるまじきことなりと仰せられ候ふ。されば『口伝鈔』(四)にいはく、「さればこの機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのらんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」といへり。(蓮如上人御一代記聞書 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P1300)
「心得た」というのは、「よく分かった」という意味で書かれています。別の意味では「信心を獲たか獲ていないか」と意味でも書かれています。
「心得たと思うは心得ぬなり」は「私は信心を獲た(よく分かったから)と言う人は、何も分かっていないのだ」と言われています。
「心得ぬと思ふは心得たるなり」は、「『信心』というシッカリしたものは獲ていない、ご法義はよく分かりませんというものが、本当によく分かっているものなのだ」ということです。
「弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり」とは、「阿弥陀仏がお助け下さることを尊いことだと聞いて疑い無いのが、信心だ」と言われています。
ですから「少しも心得たると思うことはあるまじきことなり」と言われています。