親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

論説にあらわれる親鸞会の教えの特徴・単語は出しても説明がない(顕正新聞2023年04月01日号を読んで)

顕正新聞2023年4月1日号1面

宗教法人浄土真宗親鸞会の機関紙・顕正新聞2023年04月01日号を読みました。
以下、思った事を書きます。


今回は、論説について書きます。

論説の多くは、直近の親鸞会館での行事で上映された過去の高森顕徹会長の法話のまとめになっています。
今回は、3月5日に行われた青年婦人学生大会で上映された「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は」についてのまとめでした。

気になったのは以下の文末の箇所です。

阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか。どう救うと約束されているのか。その誓いを果たすために、弥陀はどうなされたか。この仏願の生起本末に「疑心有ること無し」となる決勝点まで、阿弥陀仏の本願を真剣に聞かせていただこう。(顕正新聞2023年04月01日号3面・論説)

元々高森顕徹会長の話のまとめなのでこうなるのも仕方ありませんが、当日録画で話を聞かれた方も、実際はこのような話なのだということをあらためて知っていただきたいと思います。

文章そのものだけを読むと、あまり問題がないように思う会員の方は多いと思います。

「仏願の生起本末」という単語はあっても、説明がない

しかし、「仏願の生起本末」とか「阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか」等と、それらしい文章が続いていますが、実際にその説明はありません。

実際に、親鸞会では特に「弥陀はどうなされたか」(本当は阿弥陀仏は現在どのようになされているか)についての話はありません。あったとしても、「十九願を建てられた」というような話になり、南無阿弥陀仏の話がありません。

仏願の生起本末とは、

阿弥陀仏の名号のいわれ。仏願の生起とは、阿弥陀仏が本願を起こした理由、すなわち自らの力では決して迷いの世界より出ることのできない衆生を救うために、本願が起こされたことをいう。仏願の本末とは、仏願の因果という意味で、法蔵菩薩の発願修行を本(因)といい、その願行が満足しさとりを成就し、名号となって十方衆生を済度しつつあることを末(果)という。(浄土真宗聖典より)

ということです。

阿弥陀仏が、現在ただ今、南無阿弥陀仏の名号となって私を救おうとなさっていることをいいます。そのお働きは、私の上には念仏となって現れて下さっています。

この南無阿弥陀仏が、私を救う働きそのものと聞いて疑い無く聞き入れたことを、信心といいます。

論説の内容はスローガンのみ

論説には「必ず救う」「平生の一念に、弥陀の誓願に救い摂られたなら」「この不可思議な弥陀の救いに」「決勝点まで」などという言葉はならんでいますが、すべてスローガンに過ぎません。

会員が聞きたい、「何によって助かるのか」「どうして助かるのか」については書かれていません。これは、今回の論説がということではなく、高森顕徹会長の話はいつもそうだということです。

この青年婦人学生大会に参加された方は、論説をよくよく読んで、「聞きたいところがなかった」ことを確認してみてください。

論説・全文

全文は、以下の通りです。

顕正新聞2023年4月1日号論説