親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

最近の高森会長の法話の内容の一部を聞いて感じたこと(2016年4月10日親鸞会館での正信偈について)

2016年4月10日(日)富山県射水市親鸞会館で、高森会長の法話がありました。演題は、正信偈の「本願名号正定業 至心信楽願為因」だったそうです。その内容の一部を教えて下さる方があり、その内容は私が以前親鸞会で聞いた話と同じでした。


こういう話を聞いていると、特に親鸞会に在籍しながら高森会長の話に疑問を持った人は「一体どこからどこまでが正しい話なんだろうか?」「それともどこが抜けている話なのだろうか?」と思います。


まず、親鸞会で私が以前聞いた上記の「本願名号正定業 至心信楽願為因」では、「本願によって名号が出来上がり、その名号には私を正定聚にする働きがある。本願が因で名号が結果の関係がある。信心が因となって浄土に往生する。」大体このような内容です。そのころはさほどおかしなところも感じずに話を聞いていました。

しかし、あらためて考えて見るとこのような説明では十分とはいえません。どこがおかしいかを書く前に、高森顕徹会長の話の特徴について書きます。

高森顕徹会長の話を二つに分けると?

高森顕徹会長の話は、大きく分けると二つに分類できます。
1つは、説明がそもそも間違っている話(親鸞会的三願転入、以前の宿善を積むなど)
2つは、説明そのものは正しいように聞こえるが、肝心のところの説明をしていない話。(念仏、他力回向について殆ど言わないなど)

高森顕徹会長の話は、親鸞会が結成されてより、外部から批判されると「間違っている部分」を話さないように変化をしてきました。例えば、本願寺派から「宿善を積む表現はおかしい」と指摘されると、それ以降は使わなくなりました。会長自身が言わないだけでなく、会員にも「宿善を積むという表現は使うな」と徹底していました。ここ数年では、「親鸞会的三願転入」について、退会者を中心に批判を受け、以前ほど表立って言わなくなりました。

その結果、残ったのは2つ目に挙げた、説明は正しいように聞こえるけれど肝心なことがない話になっています。因果の道理を何度も話をするのはその典型例です。

そこで、今回の「本願名号正定業 至心信楽願為因」について、高森顕徹会長の話で何が語られていないのかを考えて見ます。


親鸞聖人は尊号真像銘文で解説を以下のようにされています。

「本願名号正定業」といふは、選択本願の行といふなり。「至心信楽願為因」といふは、弥陀如来回向の真実信心なり、この信心を阿耨菩提の因とすべしとなり。(尊号真像銘文)

http://goo.gl/Dm1jaP

最初の一行は尊号真像銘文にあるように「選択本願の行」であることをいわれたものです。第十八願で阿弥陀仏が選び取られた念仏が、私の往生の行であることは、説明する上で抜くことは出来ません。


これに付いては、善導大師は。

一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。(観無量寿経疏 散善義)

http://goo.gl/yU641A

と言われています。

それを受け法然聖人は

正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに。

選択本願念仏集に書かれています。また、上記は、教行信証行巻に親鸞聖人も引文されています。ちなみに、親鸞聖人が教行信証選択本願念仏集から引文されている箇所は二箇所しかありません。如何に大事な部分かわかると思います。

つまり、「正定業=称名(念仏)」であり、なぜそうかといえば「仏の本願によるがゆゑに」といわれています。ですから、「本願名号」といっても、ただ「名号です」「南無阿弥陀仏です」という説明では、親鸞会会員の人の多くは、お仏壇の「名号本尊南無阿弥陀仏」か「無上甚深の功徳利益の収まった南無阿弥陀仏」だとしか思いません。私が「なもあみだぶつ なもあみだぶつ(南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏)」と口で念仏する称名念仏そのものが、私を浄土往生させるお働きであるということです。それを、「称名はかならず生ずることを得。」と言われています。なぜそんなことが言えるのかといえば、「仏の本願によるがゆゑに」阿弥陀仏の本願は、そのように誓われているからだと言われています。


高森会長の説明では、称名念仏が全く無視されているので本来の意味とは異なります。「本願が成就して名号となりました。本願が因で、名号は結果です。その名号は正定業です」というのが高森顕徹会長の説明ですが、それではその名号と私の接点は分かりません。まじめな会員は、おそらく以下のように思っています。


会員「その名号を阿弥陀仏から頂くには『横の線』を進まねばならない。そのためには、法施、財施に邁進し、命がけの求道をせねばならない。信前の念仏は自力だから称えても意味はない、御礼の念仏称えられ身になるまでは、とにかく活動だ。念仏したら助かるなどというのは、20願の自力称名の行者の考えで間違いだ」

そのように会員が考えるのも無理もない話です。なぜなら親鸞会では「念仏は御礼に限る」として、称名そのものの意味を全く話をしません。その一例として、最近親鸞会に30年近く在籍されていた脱会者の方とお話したことを紹介します。

30年近く会員だった方が聞かされたことのない話

その時、先に挙げた選択本願念仏集の「称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」の話をしました。「それは真宗聖典法藏館)のどこにあるのですか?」と尋ねられたので、法藏館真宗聖典の該当箇所をみると、そこにはなにも線が引かれていませんでした。


会員でない方には分かりにくいとおもいますので、以下の画像を紹介します。

これは、私が親鸞会にいたころ使っていた法藏館刊の真宗聖典です。これは、親鸞会では会員がつかう聖典として推奨されており、高森顕徹会長の法話で「これは○○ページにある」と説明があれば、それは法藏館真宗聖典です。また、法話や書籍に掲載されているお聖教のご文を会員はボールペンなどで線を引きます。上記の三願転入の文はしっかり線が引かれています。しかし、会員歴30年近い会員だった方の真宗聖典に、前述の「称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」は全く線が引かれていませんでした。しかし、それ以外の場所は、とても多くの線が引かれていました。いかに高森顕徹会長がこの御文について話をしなかったかが分かります。


これで分かるように、高森顕徹会長はとにかく「称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」の話をしません。念仏の話をしません。その結果、「称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」と信じたのが真宗の信心なのですから、「信心」の話もしていないことになります。「念仏」の話をしないことは、「信心」の話をしないのと同じことです。


考えて見ると、親鸞会でいう「信心」の話は、ほとんどその説明をしていません。
よく聞く場合をあげると以下のようなものです。

親鸞会「信心とは、他力信心だ」
会員「他力信心とはなんですか?」
親鸞会「他力信心とは、金剛心だ。」
会員「金剛心とは何ですか?」
親鸞会「金剛心とは、誰になんといわれようとも崩れない信心だ。」
会員「崩れない信心とは何ですか?」
親鸞会「二種深信だ。」
会員「二種深信とは何ですか?」
親鸞会「それは、横の線を進めばわかる。君も法施、財施に頑張ろう!」
会員「ハイ!!」


それもはずです。「称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」の本願を信じたのが、信心なのですから、念仏抜きに信心を説いているとはいえません。



ここまで読まれた会員の方にお伝えします。高森顕徹会長は「何も説いていません」。話をしていることは「横の線を進め」という勧めです。言い換えれば、「富山に来い 人を集めろ 金を出せ」です。

早く阿弥陀仏の本願に救われて下さい。