親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会の支部長(元は高森顕徹会長)が「深信=確信」といっている件

前回のエントリーで紹介した親鸞会の現役支部長が、会員に対してこんなことを言っているという話を聞いたのでそれについて思ったことを書きます。

その支部長は会員にこんなメールを送っているそうです。

以下、支部長のメールより抜粋。

宮田は、
「救われても、浄土往生の確信はない。
 これが親鸞聖人の信心だ」と繰り返しいっています。

二種深信が立たない信心が、親鸞聖人の信心だと放言し、
自分は浄土往生の確信がないまま信心決定したつもりになっています。

最初から間違いです。どうやら、深信=確信と間違って理解をしているようです。こんなことを会員に言っているのですから、私を批判するつもりが親鸞会が勧める信心は親鸞聖人と異なる信心だと言っていることに気がついていません。

つづけて、その根拠として安心問答を引用して紹介しています。

以下、その根拠です。(すべて「安心問答」です)

●1

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120512/1336807460#c

阿弥陀仏に救われたら、浄土往生の確信があるのかないのか、については、私は
「ない」という立場です。


●2

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130816/1376645018

「後生がわかるかわからないかを問題にしない」ということです。
どれだけ心配しても、後生のことは凡夫にはわかりません


●3

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130816/1376645018
(略)
歎異抄2条について「私に聞かれてもそんなの知らない」という意味で
は全く知らないと言われたものと思います。阿弥陀さまに聞けば明らかなことで
すからね。

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法の深信

御臨末の書

往生一定

往生治定

など、死後の往生がハッキリする根拠はいくらでもあります

まずは、このメールの本文を書いた人に安心問答を読んで頂いたことについて御礼を申し上げます。2012年のものまで遡って引用してくるとは思っていませんでしたので、正直驚きました。

深信=確信なのか? 往生一定=往生浄土の確信なのか?

上記の間違いは、特段支部長の個人的意見ではありません。高森顕徹会長自身が、そう言っているからです。

ここで聖人は、「私は浄土へ往ける身になった」「仏のさとりに近づいている」と明言されているから、そんな自覚と確信のある人だけが知らされる、自己であり懺悔であることを、確認しておかなければならないであろう。(なぜ生きる2部14章より)

 聖人の浄土往生の確信は、弥勒菩薩を引き合いに出されての、つぎの言葉でも知られよう。(なぜ生きる2部20章より)

なぜ生きる

なぜ生きる


どちらも、法の深信を誤解したものです。

二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。 (教行信証信巻引文)

http://goo.gl/46IHLL

「深く(略)さだめて往生を得と信ず」は確信ではありません。なぜならば、確信は、

かくしん【確信】
(名)スル
かたく信じて疑わないこと。また,その信念。「彼の無実を―する」「―をもって言う」(大辞林

という意味だからです。

深信とは、「かたく信じて疑わないこと」でも「信念」でもありません。 無疑であって不疑(かたく信じて疑わないこと。信念)ではありません。

ちなみに「無疑」とは、現に目の当たりにするものに直接あったときにいうことです。例えば、晴天の日に「今日は晴れている」ことについては「無疑」です。現に晴れているのに、「晴れていることをかたく信じて疑わない」人はありません。また「晴れていることを信念」とする人もありません。


ですから「かたく信じて疑わないこと」を言い出す人は、その内容について目の当たりにしていない人の言葉です。「浄土往生の確信」などというのは、「浄土往生できるに違いないという信念を持つ」ことを信心だと思っている証拠です。またこの支部長は、自身の信心が自力心であることを私との電話で告白していました。


実際煩悩具足の凡夫に目の当たりに浄土を見ることはできません。しかし、「必ず浄土に参らせる」の仰せである南無阿弥陀仏に直接しています。その意味で、「さだめて往生を得」と聞き入れているのです。


こんな「深信=確信」という高森顕徹会長は、きっとそれが親鸞聖人の信心と思い込んでいるのでしょう。思い込むのではなく、南無阿弥陀仏を直ちに聞いてください。間違いを聞かされる支部長も会員も迷惑です。


最後にこのメールを送信した支部長に言っておきます。
今生で信心決定を諦めたのですか?
貴方のメールは、そのまま高森顕徹会長の主張となります。高森顕徹会長は、「確信するのが信心」とお聖教にないことを思い込んでいますが、それでも会長に死ぬまでついていくつもりでしょうか?


大手企業を退職してまで、講師部員になった貴方が現在していることは、親鸞聖人の教えられたことを曲げていることをよくよく知ってください。もし、高森顕徹会長の説に疑問を起こされたらいつでも相談にのります。このようにブログに公開することはありませんので、安心して下さい。これは、この支部長に限らず、親鸞会の現会員の皆さんにも言いたいことです。