親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「善知識(高森顕徹会長)を疑うな」「命がけで聞け」の親鸞会館初聞法会(2019年01月03日親鸞会館行事より)

2019年01月03日(木)親鸞会館(富山県射水市)で、高森顕徹会長の話がありました。
内容については、以下のブログでも言及されています。
hiun.cocolog-nifty.com
shingikensho.blog12.fc2.com



今回の演題は、以下のものです。

質問
「宗の極致」と「『歎異抄』第二章」の関係をお聞きしたいと思います。

もちろん、この「質問」は親鸞会側から用意したもので、参加者から出たものではなさそうです。

大まかに内容をまとめますと、以下のようになります。

  • 「いまの真宗においては、もつぱら自力をすてて他力に帰するをもつて宗の極致とする」(改邪鈔)
  • この「自力をすてて他力に帰する」が教行信証に書かれていること。
  • 自力とは、阿弥陀仏の本願を疑っている心だけをいう。
  • 他力とは、疑いがなくなった心のこと。
  • 『歎異抄』第二章は、京都におられる親鸞聖人に、関東の同行が命がけで聞きに来た話。
  • その関東の同行に対して親鸞聖人は、ねぎらいの言葉もない。なぜなら、親鸞聖人を疑って来たからだ。
  • 親鸞を疑っているのなら「南都北嶺にもゆゆしき学匠」が多くいるから、それらの人から聞いたら良い。しかし、彼らは「真仮の門戸も知らない」
  • 「親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。」と言われる。
  • この言葉に、「行=念仏して」「弥陀に助けられまいらせて=証」「教(=よきひとの仰せ)」「被りて(=聞)」「信ずる(=信)」が収まっている。
  • そこで「ただ念仏」の「ただ」が分からないのが関東の同行だった。「ただじゃそうな」でもない、「ただがわからん」で聞きに来た。本当は「ただじゃった」の「ただ」。大悲の願船に乗せられたとき、「ただじゃった」と分かる。
  • 「宗の極致」を「『歎異抄』第二章」でこのようにいわれている。
  • 「念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。」とは、親鸞聖人はそれについてハッキリしすぎたことについて言われた言葉。

でてきた根拠はまだ他にもあるのですが、長くなるので割愛しました。

すでに、飛雲さんで言及されていますが、「おかしなことを言わないようにしよう」と気をつけていることは分かります。それは、アニメ映画のシナリオにそった内容だからでしょう。
しかし、「本来の真宗にそった話をしよう」とすればするほど、高森顕徹会長の意図は逆に強調されてしまうことが分かるのが今回の話でした。


大きく分けると、二つあります。
1 「善知識を疑うなよ」
2 「命がけで聞かないとわからない」
それぞれについて、以下に書いていきます。

善知識を疑うな。について

これは、ある意味親鸞会結成以来まったくぶれていない高森顕徹会長の話の特徴の一つです。
今回の話でも「念仏のほかに往生の道」があるのではないかと、いわゆる「教」についての疑問をもって京都まで来たのが関東の同行のはずなのに、高森顕徹会長の説明では「善知識に対する疑い」にすりかえて強調します。また、善知識に対する疑いを戒めます。


そして、「ゆゆしき学匠」は何も知らないと強調します。ここで親鸞会会員にとっては、容易に「伝統教団の真宗学者や布教使」に脳内変換されるので、「伝統教団は真宗のイロハも知らない」と思い込ませて、親鸞会以外には真宗の教えがないように会員を誘導します。これは、私が会員だった頃からも一貫して変わらないところです。


そもそもの話ですが、「お聖教」が「教」であって、「教えを説く人」が「教」ではありません。加えて言えば、「お聖教と違うことを言う人」は、百歩譲っても「教」とは言えません。


また、高森顕徹会長の話を真面目に聞いて実行している人は必ず「疑い」が起きるはずです。それは「平生業成なのになぜ時間がかかるのか?」「本当に救われるのか?周りにほとんどいませんが?」「親鸞会館に足を運んでも話がいつも『また次回』になるのはなぜか?」などなどあげれば切りがありません。


しかし、それを「疑うな」と言い切るのが高森顕徹会長です。そもそもの話ですか、歎異抄に出てくる関東の同行の「疑い」は法に対する疑いです。それに対して、親鸞会会員の「疑い」は、高森顕徹会長という「人」に対する疑いですから、全く違います。ここまで読まれた親鸞会会員の方が抱えている「疑い」は、ほぼ高森顕徹会長という「人」に対する疑いで「阿弥陀仏の本願に対する疑い」ではありませんので、その「疑い」に悩む必要はまったくありません。なぜなら、まともに「法」を説かない高森顕徹会長という「人」に対して「疑い」を持つのは全く自然というか、普通のことです。むしろ「疑いを持っていない(と見える)人」が普通ではないのです。しかし、そういう「高森顕徹会長に疑いを持っていない(と見える)人」も、「高森顕徹会長を疑う自分が間違いなのだ」と自己批判をして、「法」と「人」を取り違えているに過ぎません。いつか気がつく人もあると思います。

命がけで聞かないと分からない。について。

今回も、「関東の同行は田畑を売って京都まで来た」「命がけで聞きに来た」「命がけで聞きに来た人にいわれた歎異抄第二章は、命がけになった人でないと読めない」と強調しました。


しかし、歎異抄に出てくる関東の同行は「念仏一つ」についての疑いが起きて、京都までやって来たのですが、親鸞会会員のみなさんは、「念仏一つの教え」に疑いを持って親鸞会館に来られた人はあるでしょうか?繰り返しになりますが、親鸞会会員の多くの人は「高森顕徹会長」を信じて「法」についてはあまり考えません。むしろ「高森顕徹会長は間違いない」が「命がけにならない私が間違い」と思っています。


そして「命がけになれない私は助からない」「どうしたら命がけになれるのだろうか」と考えています。これは、かつて私が思っていたことですが、熱心な会員の方が多く思っていることではないでしょうか?


「頭燃を灸ふがごとく」しても「虚仮の行」しかできないと言われている一方で「命がけで聞け」というのは、どう思われるでしょうか?私がどれだけ「命がけで聞きに行った」といってもそれは「虚仮の行」でしかありません。「ぼーっと聞いてんじゃねえよ!」とチコちゃんに叱られなくとも、私が真剣に聞こうという「真剣」は「虚仮」でしかありません。
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チコちゃんに叱られる! - NHK

もし、そんな「命がけ」で聞くことが出来なければ救われないなら、本当に「どんな人も」救われるでしょうか?

まとめ

高森顕徹会長の教えは「善知識(高森顕徹会長)を疑うな」「真剣になれ」「親鸞会館に来なさい」以外にはありません。逆にいうと「高森顕徹会長の話を信じられない」「真剣になれない」「親鸞会館に来れない」人は救われない教えです。

「まともな話」をしようとした結果、かえって「高森顕徹会長の教え(親鸞会独自教義)」が明確になった今回の話でした。

おそらくこのような内容が「映画『歎異抄をひらく』」になるのでしょう。