親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

2019年10月20日(日)親鸞会館報恩講二日目「悪人と知らされるまで善をしないと救われない」と気になるしおりの変化

shinrankaidakkai.hatenablog.com
この記事の続きです。

2019年10月20日(日)親鸞会館(富山県射水市)にて、親鸞会報恩講の2日目が行われました。
午前に高森顕徹会長の座談会(講演)がありました。午後は弁論大会でした。
また、コメント欄で頂いた情報によると、21日(月)も予定になかった座談会が行われたとのことで、二種深信と念仏についての話があったとのことでした。

今回の参加者自身が書かれたブログがあるので紹介します。
carsa-j.hatenablog.com


他に参加された方から頂いた情報を簡単にまとめると以下のような話でした。

お釈迦様一代の教えは「廃悪修善」

善いことをしようとすると善の出来ない自分が見える。悪を止められない自分が知らされる。

どういう相かといえば、大無量寿経にこう説かれている。
心常念悪
口常言悪
身常行悪
曽無一善
(心も口も体も悪ばかり、かつて一善も無いもの)

親鸞聖人は
悪性さらにやめがたし
 こころは蛇蝎のごとくなり
 修善も雑毒なるゆゑに
 虚仮の行とぞなづけたる(悲歎述懐)
と言われている。

お釈迦さま一代の教えは、全ての人は「曽無一善」と知らせること。
自惚れ強い私たちは、善が出来ると思っている、悪は止められると思っている。

お釈迦さまは阿弥陀仏の本願に導く為に説かれた。

歎異抄には阿弥陀仏の本願を「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします」と書かれている。
また、「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と書かれている。

ここで「善人」とは善が出来ると自惚れている者、善を真剣にしたことがない者をいう。善を実行すれば、悪人と知らされる。全ての人は悪人であり「悪人正機」が阿弥陀仏の本願

願力無窮にましませば
 罪悪深重もおもからず
 仏智無辺にましませば
 散乱放逸もすてられず

曽無一善と罪悪深重が知らされれば、仏智無辺と散乱放逸も知らされる。これは法の深信と機の深信のこと。

二日目には、さすがに歎異抄の言葉を少しだして演題の「なぜ生きると歎異抄」に合わせるようにしてきました。しかし、歎異抄のご文も自分に都合がいいところだけを出しているのがよく分かる話でした。

さらに短くまとめると、
1日目 廃悪修善が仏教
2日目 お釈迦さまが廃悪修善を説かれたのは、善をしないと悪人と知らされないので阿弥陀仏に救われないから。
となります。


高森顕徹会長の話の特徴の一つとして、善の勧めの強調があります。その理由は、「善をしない者は悪人と知らされず、したがって悪人正機の本願に救われない」というものです。


しかし、これでは阿弥陀仏の本願にただ今救われる人はいなくなってしまいます。なぜなら、上記の理屈では必ず「善を実践して自分が悪人であると知らされる」段階を経なければ救われないからです。
また、「自分が悪人と知られれることで救われる」と誰もが思うので、「善をしないもの」は救われないということになります。これは親鸞会で言えば「親鸞会館に来ないものは救われない」と言っているのと同じことです。


親鸞会で熱心に活動する会員の多くが感じることですが、どれだけ善を実行しても「自分は曽無一善」とはなかなか知らされません。そこで考えることは、「悪人と知らされていないのだから、少なくとも今現在救われることはまだない」というものです。



なぜ助からないかの話

今回も、聞きに来た会員が「自分はなぜ助からないのか」について「善を実行して悪人と知らされないから」と高森顕徹会長が話をしました。親鸞会の話はほぼこの「なぜ助からないのか」の話だと言っても過言ではありません。熱心な会員は、「どうして助からないのか」の疑問をもちながらも活動を続けています。それに対して、親鸞会館で聞く話は「自惚れているから自分が悪人と知らされないのだ」という話を高森顕徹会長がしてきました。それを聞いた会員は、高森顕徹会長が間違った話をしているとは夢にも思っていませんので、「自分が助からない理由」を聞いて「じゃあ助からなくても仕方がないよね」と間違った意味での心の落ち着きをもって地元へ帰っていきます。

親鸞会にいると「高森顕徹会長の話を聞くと力が湧いてくる」「元気が出ました」というような会話や、機関紙に高森顕徹会長への御礼状が耳に入ってきます。しかし、これは実際をいうと先に書いた通りで、「これだけ聞いてきたのになぜ助からない」と無意識に少しずつ起きる高森顕徹会長への疑念が、「やっぱりそんなに簡単に助からないですよね」という形で解消されたと感じているだけのことです。



なぜ助かるのかの話

今回演題から出してきた歎異抄のお言葉の前後には、必ず「なぜ助かるのか」の話が書かれています。
歎異抄もそうですが、真宗の話というのは「必ず助かります」という話に始まり、それに対して疑いをおこす人に対して「なぜ助かるのか」と説かれる話です。それが仏願の生起本末であり、念仏の話です。


今回でてきた歎異抄の箇所で言うとこのようになります。

そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。(歎異抄第一条)

ここでは、「他の善も要にあらず」と善は勧めておられません。では「善をしないと悪人と知らされないので助からないのでは?」という人に対して「念仏にまさるべき善なきゆゑに」と書かれています。
ここでは「なぜ助かるのか」は「念仏にまさるべき善なきゆゑに」となります。


次に、第3条にはこう書かれています。

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。(略)しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

ここでは「なぜ助かるのか」について「自力のこころをひるがへして他力をたのみたてまつれば」と書かれています。「善を実行しないと悪人とは知らされず、よって救われない」とは書かれています。せん。


最後の和讃についても、「願力無窮にましませば」が「なぜ助かるのか」の部分です。「罪業深重と知らされないから助からないのだ」という内容ではありません。



助からないことに納得しない

高森顕徹会長も「どんな人も必ず助ける」のが阿弥陀仏の本願だと言っています。
「どんな人も」とは、悪人と知らされていない人もということです。
「必ず助ける」ですから、助からないことに納得するのは理屈が通りません。


高森顕徹会長の話を会員が聞きたいと思う理由は、実は「なぜ助からないかが聞けるから」です。ほとんど人が助からないそれらしい理屈を聞いて「自分だけが助からないのではないのだ」と思い、事実二千畳には「助かりました」という人はほぼいません。そうしてある意味「自分が助からないのは不思議なことではない」という予定調和で進行しているのが二千畳での高森会長の法話(座談会)の実態です。ここまで読まれた会員の方は心当たりがあるのではないでしょうか?自分が助からない理由を聞いて安心し、まだ同じような状況の会員を見て安心したいがために親鸞会館に足を運んではいないでしょうか?


必ずただ今救われます

阿弥陀仏の本願は、ただ今救うという本願です。その証拠が南無阿弥陀仏と称えられるところの念仏です。この南無阿弥陀仏がただ今私を救って下さいますので、「まだ自分は悪人と知らされていないから」という思いは捨てて下さい。「いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ」のが阿弥陀仏の本願です。つまり「曽無一善と自覚するための行」でも生死を離れることはできません。言い替えると、貴方が大変な善行に励んで、その結果自分は「曽無一善」と知らされたとしても、それで救われるのではないということです。「いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる」のが私です。南無阿弥陀仏によらねば救われないので「他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり」と書かれています。

気になるしおりの変化

最後に、今回のしおりの裏表紙を見て気になる点がありました。

f:id:yamamoya:20191023044714p:plain
2019年報恩講のしおり
比較のために、過去の(平成23年降誕会)のしおりの裏表紙が以下のものです。
f:id:yamamoya:20191023044609p:plain
平成23年のしおり
まず見て分かるのは鷲のマークが今年のしおりにはありません。そして、以前は「浄土真宗親鸞会降誕会実行委員会」が開催し、作成したしおりということになっています。
それに対して、今回は「親鸞聖人報恩講実行委員会」が開催したことになっています。「浄土真宗親鸞会」の文字も無くなりました。


トレードマークである鷲のマークが使われていないのは、以前ではなかったことです。
時期を同じくして、今年7月から講師による二千畳が始まったり、二千畳での高森顕徹会長の先の予定が掲載されなくなりました。


細かいことですが、親鸞会は何か変化が起きた時には会員を含めて講師部員にも説明しません。今回のことも同じだろうと思います。個人的な感想として、「宗教法人 浄土真宗親鸞会」はもう存在しないのではないかということです。宗教法人の場合は、代表役員、責任役員、代務者を置かねばなりません。会計も厳しく、いろいろと縛りがあります。そこで、いろいろと厳しい状況の親鸞会は、法人格を手放しているのではないかということです。それが、しおりに鷲のマークがなくなった理由だと想像します。実態はわかりませんが。