2019年11月10日(日)親鸞会館(富山県射水市)で高森顕徹会長の話がありました。
演題は「親鸞聖人の告白」でした。
先に結論を書きますと、高森顕徹会長の告白といっていい内容でした。
なぜそうなのかは、以下に書いていきます。
大まかな話の流れは以下のようなものでした。
親鸞聖人の告白とは?
この和讃から紹介
是非しらず邪正もわかぬ
このみなり
小慈小悲もなけれども
名利に人師をこのむなり(正像末和讃)仏教を聞くとは、横の線を進んで法鏡(縦の線)に近づくこと。
自分を映す鏡には、3枚ある。「他人」「自分」「法鏡」この縦の線で、本当の自分が知らされる。その告白がこの和讃。
自分は、「是非も知らず」「邪正もわからない」
是非を知りたい、邪正を知りたいと思って修行に打ち込んだ、横の線を進んだけれども縦の線で知らされたのは、全く分からない自分の相だった。
「小さな慈悲もない」
慈悲とは、抜苦与楽。人間の慈悲は「続かない」「差別がある」「盲目」という欠点があるので小慈悲といわれる。
阿弥陀仏は、すべての人を絶対の幸福にしてやりたいという大慈悲。
「名利に人師をこのむ」名誉欲と利益欲が強く、人の上に立って指導者になりたいと思っている。そんな極悪人の親鸞一人を助けるために阿弥陀仏は本願を建てられた。五劫思惟をされた。
仏教を聞くとは、法鏡に近づき、本当の自分が照らし抜かれるところまでいくこと。
さらに短くまとめると、
本当の自分が知らされるところまで聞くのが聞法であり、その目的である。
この話の内容については、すでにこちらのブログで言及されています。
shingikensho.blog12.fc2.com
法鏡に向かって進め、本当の自分が知らされるまで進めというのは、これまでも高森顕徹会長が話をしてきた内容です。しかし、本当の自分が知らされることと、阿弥陀仏の救いにあうこととの関係はぼんやりとしたまま話は終わりました。極悪人の自己の姿が知らされなければ救われないとまでは言わずに、聞いた人になんとなくそう思わせるぐらいの話でした。
しかし、その内容の大半は「是非知らず〜」の和讃についての話であり、これを「親鸞聖人の告白」として話をしました。和讃そのものは、確かにそうですが、いろいろと高森顕徹会長を知った上で聞いていると、「高森顕徹会長の告白」といっていい内容でした。
では、どのあたりが高森顕徹会長の告白なのかと言えば
浄土真宗の教えについて「是非知らず」なにを話すべきか、話すべきではないかという「邪正もわからない」といっています。
加えて、熱心に富山県の親鸞会館まで足を運ぶ会員に対して、「小慈小悲もなき」ものだといっています。
加えて、本願寺より大きな会館を建てて、そこに満堂の参詣者を前に話をしたい、ベストセラー作家として名前を連ねたい、みんなから五百年に一度の善知識と呼ばれたいという「名利に人師をこのむなり」が、自分であるという告白です。
もちろん親鸞聖人の和讃は、そういう我が身についての悲歎を述べられたもので、そういう自分を浅ましいものだという前提で書かれています。しかし、高森顕徹会長についてはそういう悲歎を述べるところは一つもありませんし、今まで聞いた記憶がありません。
別の言い方をするとこうなります。
私は、会員の後生を心配するような気持ちはありませんが、名利を大事に思い、先生と呼ばれたいだけなのです。
身も蓋もない話をしたのが、今回の「高森顕徹会長の告白」でした。
一日かけて、参加者はそんな話を聞かされたということです。
仮に、自分のことを懺悔して告白するとしても、それだけの話を富山県まで行って聞きたい人はいません。南無阿弥陀仏の救いを聞きに来たのです。救いのない話を聞いても救われないというのは、別に特別なことをいっているわけではありません。
ただ今助ける南無阿弥陀仏を、ただ今聞いて救われて下さい。