親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

[ネタバレ]映画「歎異抄をひらく」の感想(3)。「高森先生」と「高森顕徹氏」の対話として見る

映画「歎異抄をひらく」の感想並びに考察をこれまで2回書きました。
shinrankaidakkai.hatenablog.com
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これまでは、平次郎(唯円)=親鸞会講師という立場で描かれた作品だと見るとこうなるという考察を書きました。

今回は、また別の視点から見るとこの作品は実際はこういうことが書かれているのではないかということを書いて行きます。

平次郎=個人としての高森顕徹氏・親鸞聖人=親鸞会会長としての「高森先生」の対話

この作品は、前にも書きましたが一見すると何がいいたいのかよく分からない作品です。そこで別の視点を入れることで製作者の意図を明らかにしようという考察をしています。

そこで今回は、上記に掲げましたように

として描かれているという視点から見てみました。

映像作品には、その作者のいろいろな面を別々のキャラクターに投影して作っているものがあります。また、それらのキャラクター同士の対話や対決を通して自分の本心を描いた作品もあります。この映画「歎異抄をひらく」もそういう作品として見ると、中心となる平次郎と親鸞聖人の対話がそのまま、高森顕徹会長の内面にある二つのキャラクターの対話となります。そうなると、誰かに向けた作品というよりは、自問自答なので事情を知らない観客からすると何がいいたいか分からない作品になってしまいます。

平次郎と親鸞聖人は何について話をしているのか?

前半の対話シーンと、ラストの歎異抄第九条のシーンがセットになる形で描かれています。

平次郎「教えてください、親鸞さま」
親鸞聖人「どうした、平次郎」
平次郎「親鸞さまは、救われたのですか?」
性信房「!……」
明法房「!……」
性信房「平次郎。おまえ、何ということを……」
親鸞聖人「よい質問だな」
明法房・性信房「え……?」
親鸞聖人「ああ、私は阿弥陀仏の不思議なお救いに遇わせていただいたよ」
平次郎「絶対の幸福に救われたら、どんな気持ちになるのですか」
親鸞聖人「(喜びに満ちた表情)どんな大きな波が来ても、びくともしない、大きな船に乗せられたような気持ちだな。行き先が極楽浄土とハッキリしているから、安心して旅を楽しめるのだよ」
平次郎「(理解出来ず)……」
人は、なぜ、歎異抄に魅了されるのかP73)

この最後の平次郎が「(理解できず)……」が、ずっと続いて最後の歎異抄第九条の場面での親鸞聖人への質問となります。

114加茂川のほとり(回想)
親鸞聖人(88歳)と中年の唯円、岩に腰掛けられている。
唯円「教えて下さい、聖人さま」
親鸞聖人「何かなぁ、唯円房」
唯円「私は念仏称えても、天に踊り地に踊るような喜びが起きません。また、早く浄土へ往きたい心もわかないのです。これは、いったどうしてなのでしょうか」
親鸞聖人「おぉ、唯円房、そなたもか。実は、親鸞も同じことを思っていたのじゃ」
唯円「えっ。聖人様も……」
人は、なぜ、歎異抄に魅了されるのかP192)

このように、平次郎が親鸞聖人に対して子供時代に「親鸞さまは救われたのですか?」と問いかけたことに対して、親鸞聖人の回答が理解できず、その答えを求めていくことがこの作品の実際のテーマとなっています。

そこで先に書いたそれぞれのキャラクターに当てはめてみるとこうなります。

一個人としての「高森顕徹氏」が、親鸞会会長である「高森先生」に「高森先生は救われたのですか?」と問いかけ、それに対する回答に「高森顕徹氏」は理解できずにいるという構図になります。

「高森先生」は救われたのだろうかと問いかける「高森顕徹氏」

親鸞会の会員にとって「高森先生」は18歳の時に信心決定をしてより、後に親鸞会を結成し60年以上真実を説き続けた「善知識」です。その間本願寺との間の「宿善論争」で本願寺を完膚無きまでに論破し、本願寺もそれ以来何も言って来なくなったということになっています。
いつのころからか分かりませんが、会員の前での「高森先生」と一個人としての「高森顕徹氏」が乖離してきたひずみが今になって本人の悩みになっているのが、この作品に現れています。自分から会員に「善知識」と呼ぶようにしていながらも、親鸞会結成から何年も経つと会員のイメージする「高森先生」は完全無欠な生き仏のような存在となっていきました。


同じような例として、オウム真理教麻原彰晃も、当初に比べて会員が増えると周りからどんどん期待値が上がり、「助けて下さい」と言われ、それに応えようとしているうちに変化していったと、以前三女がラジオインタビューで語っていました。


そして考えてもみれば、18歳に信心決定したのが本当だとしても、そのころ「絶対の幸福」という概念が本人にはなかったわけですから、18歳の時に「私は絶対の幸福になった」と思うはずもありません。親鸞会特有の「阿弥陀仏の本願は絶対の幸福に救うもの」という定義も、「高森先生」が言い始めたことですが、未だにその定義はよく分かりません。


しかし、会員が増えるにつれ拡大していく「高森先生像」とそれに対応させるかのように言い続けてきた真宗にない教えの数々(絶対の幸福、縦の線と横の線、宿善問題、親鸞会流三願転入などなど)が、一個人としての「高森顕徹氏」の元々思っていた浄土真宗やその信心との差が大きくなってきたと思われます。「高森先生」は信心決定して、絶対の幸福になっていますが、「高森顕徹氏」の信心はどうなのかについてはいろいろと意見が分かれるところです。


そして、この作品において、もう一人の自分というにはあまりに大きくなりすぎた「高森先生」に、「高森顕徹氏」がその信心に疑問を投げ掛けます。しかし、その応えはいわゆる「高森先生の話」であって、映画の中のセリフを通しても全く伝わってきません。正直な感想としては、「高森先生bot」にチャットで質問を投げ掛けて、ロボットから回答が来ているように感じました。


そのように感じる理由は、映画の中の親鸞聖人(「高森先生」)はあくまで、「高森顕徹氏」が作り上げたキャラに過ぎないということです。キャラクターというのはあくまで作り上げたものであって実体はありません。親鸞会講師の言葉の多くが「高森先生がこう仰った」であって、講師自身の心が伝わらないように、「高森先生の言葉」も「高森先生というキャラクター」が言っている言葉なので心がありません。かつては、キャラクターとしての「高森先生」と本人としての「高森顕徹氏」が一致している部分も多かったのでしょうが、少なくともここ20年位は完全にキャラクターとしての「高森先生」が独立して、本人としての「高森顕徹氏」の姿は話をしている内容からもなくなったように感じています。


キャラであったはずの「高森先生」が、本来の「高森顕徹氏」を飲み込んでしまい、自分は一体なんなのだろうかと考え始めたことを、映像化したのがこの作品です。

まとめ

こうして大きくなりすぎた「高森先生」に、「高森顕徹氏」が、あなたは本当に救われたのですかと問いかけるのですが、その回答は「救われてます」です。しかし、元々そういう設定のキャラクターなのでそう尋ねることに意味はありません。なぜなら、キャラクターには実体がないからです。
歎異抄第九条の場面でも、「私は念仏称えても、天に踊り地に踊るような喜びが起きません。また、早く浄土へ往きたい心もわかないのです。これは、いったどうしてなのでしょうか」と問いかけますが、直接の回答は「高森先生」からはありません。
少なくとも、キャラクターとしての「高森先生」が語る「絶対の幸福」に「高森顕徹氏」はなっていないようです。私も「絶対の幸福」にはなっていませんので、「高森先生」に質問する機会があれば聞いてみたいと思います。
それでも、「高森先生」の言うことを、「高森顕徹氏」はせめて書き残そうとしてこの作品を作りましたというのが、この映画「歎異抄をひらく」です。