親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

[ネタバレ]映画「歎異抄をひらく」の感想。令和の親鸞会講師部員の過去・現在・未来の自画像としての作品

映画「歎異抄をひらく」のBlue-ray/DVDが5月13日に発売になりました。
tannisho.jp

すでに入手された方からお借りする形で、見ることができました。以下思ったことを書きます。

映画「歎異抄をひらく」
中身はBlue-RayとDVDの二枚組みです。
字幕は、日本語、英語、中国語(簡体字)、中国語(繁体字)、ポルトガル語と大変豊富です。

また、こんなwebサイトも作っています。
歎異抄.jp[なぜ、善人よりも悪人なのか]

完全版とはなんだったのか?

今回のBlue-ray/DVDは「完全版」と銘打たれて販売されています。映画館での公開当時の内容にいろいろと修正をして「完全版」を制作したのがこの映画です。しかし、今回の「完全版」を、映画公開当時のシナリオを収録した本を参照しながらみてみたところセリフに関しては何も変更がありませんでした。

公開当時は、映画館で見ることが出来なかったので、映像面で何が変わったのかは私は分かりません。
shinrankaidakkai.hatenablog.com

そもそもほとんどが会話劇の型式である「歎異抄をひらく」の「完全版」といいながら、セリフに変更なしだとすれば、「完全版をつくる」の名目で会員から募ったお布施はなんだったのかと思います。

以下、感想を書きますが作品のネタバレを含む内容なので、それが嫌な方は作品を見た後に御覧下さい。


↓↓↓↓↓↓↓↓以下ネタバレを含む




主人公は誰?

大まかな感想を先に書くと、タイトルにも書きましたが令和の親鸞会講師部員を描いた作品です。

最初にこの作品を見た時には正直なところ何が言いたいのか分からない作品でした。そこで、ブログに感想を書こうとしていろいろ考えて見たところ、現在親鸞会に残っている講師部員、それもアニメ制作に関わっている人の姿だと考えるとすべてつながってくることに気がつきました。

最初に見た時に何が言いたいか分からないと思った理由の一つは、主人公が誰なのか分からないというものがあります。
大まかなあらすじを、公式サイトから引用します。

鎌倉時代、1200年代前半。貧しい農家に生まれながらも賢く利発な平次郎は、ある日、親鸞聖人と出会い、多くを学び成長していく。

やがて京に戻った親鸞聖人を追って故郷を離れた平次郎は、「唯円」という名を授かり、仲間たちとともに親鸞聖人のもとで仏教を学ぶ。そんな中、かつての友人が苦境に立たされていると知った唯円は、なにもできない自分への無力感にとらわれ苦悩する。なぜ、善人よりも悪人が救われるのか? 人は、なぜ生きるのか? 

「すべての人間が悪人であり、救われるために条件はない」という親鸞聖人の言葉の真意が、解き明かされていく――。

ストーリー | .歎異抄をひらく[映画公式サイト]|TANNISHO|親鸞

これだけを読むと、歎異抄の著者とされている唯円房(平次郎)が主人公なのかと思います。ところが、この主人公の平次郎は自分自身の問題としての葛藤や悩みがあまり描かれておりません。むしろ、いろいろな自分自身の悩みや葛藤で苦しんでいるのは、主人公以外の人物です。


本作品の大きなテーマと考えられる「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」について実際に我が身のこととして悩んでいるのは、強盗殺人の罪を犯してしまう平次郎の幼なじみの権八や、遊女になった権八の妹のアサです。また結果として実の弟を自殺に追い込んでしまった兄弟子の慧信房も、わが事として悩みそれを乗り越えていく姿が描かれています。
また、親鸞聖人もたびたび登場してセリフも多いです。声優が石坂浩二ということもありパッケージを見ると親鸞聖人が主役のようにも見えますが、あくまで平次郎の師匠というスタンスで描かれているのでやはり主役とはいえません。


一般に映画や小説の主人公は、自分自身が抱える問題と対峙し、それを克服するのことに焦点が当てられます。しかし、この平次郎は主人公というにはあまりにも内面の悩みや葛藤がありません。かつての親鸞会作成のアニメのように「後生の一大事で苦しむ」という姿も描かれていません。それなら、権八や慧信房、または親鸞聖人を主人公とした方が作品とテーマが一致すると思います。

親鸞会のアニメの歴史を振り返る

親鸞会のアニメの歴史でいえば「世界の光 親鸞聖人」シリーズでは、主人公は親鸞聖人でした。その主人公である親鸞聖人がが、なぜ仏教を求めるようになったのか、その後何に悩み、どう考えて行動してきたのかが、主人公視点で描かれていました。映画「なぜ生きる」も主人公の本光房了顕が何に悩んで仏教を聞くようになったのかという動機は描かれていました。
それに比較すると、今回の映画「歎異抄をひらく」の主人公平次郎は何を考えているのかがよくわかりません。そのため共感もできないまま話が進んでいきます。

平次郎=親鸞会講師部員として見ると何が言いたいのかが見えてくる

ところが、この平次郎という主人公がどう描かれているか、大まかな流れを書いて見ると、親鸞会講師部員の姿なのだと気づきました。

以下、作品中の平次郎の大まかな流れを書きます。
子供時代

  1. 山の中で熊に襲われたところたまたま出会った明法房に助けられ、それが縁となって親鸞聖人から話を聞くようになる。
  2. 記憶力に勝れた平次郎は、親鸞聖人の元に度々出掛け、聞いた内容を兄や友人にそのまま話して聞かせる。
  3. 親鸞聖人の話を聞く為に、親にだまって早朝聖人の元へ通う。

青年時代

  1. 京都に帰られた親鸞聖人の後を追って、京都へ行く。目的は、もっと親鸞聖人から教えを聞くため。
  2. そこで先輩たちとの共同生活が始まる。
  3. 会合や座談のような場面があるが、殆ど口頭試験のような描写。
  4. 前述した、権八、アサ、慧信房のエピソード

晩年

  1. 歎異抄を書く


これに比較して、親鸞会講師で今現在も講師部員を続けている人に当てはめるとどうなるかを以下に書いていきます。

平次郎子供時代=親鸞会講師部員の学生時代

まず子供時代は、学生時代にあたります。多くの講師部員は学生時代にたまたま勧誘を受け高森顕徹会長の話を聞くようになります。これは平次郎の子供時代(1)と同じです。

また、割りと記憶力がいい人も多いので高森顕徹会長から聞いた話をだいたいそのまま人に話をすることが出来るので、学生時代には後輩や友人相手によく話をしています。これは平次郎の子供時代(2)と同じです。

次に、学生時代に大体親にだまって高森顕徹会長の法話に出掛けます。高森顕徹会長の法話会場が居住地よりかなり遠いと帰りも夜行バスとなり到着は月曜日の朝になります。そのため月曜一限目の授業に遅れます。特に関東学生部は富山の親鸞会館の行事が必ず帰りが夜行バスになるため、関東学生部あるあるでした。このあたりの描写は平次郎の子供時代(3)に当たります。


平次郎青年時代=親鸞会講師部員・顕真学院から現在

そして、青年時代は親鸞会講師部員に当てはめると講師部員になってから現在までの話になります。

大学を卒業または中退の後、講師部員の道に進みますがその目的の多くは「高森先生からもっと話を聞く為」です。これは平次郎の青年時代(1)と同じです。

そして顕真学院で、共同生活を送りながら研修をうけます。講師部認定後は、今は違いますが、10年以上前は講師部員になると各地の会館や各地の事務所で上司や先輩たちと共同生活となります。これは平次郎の青年時代(2)と同じです。

高森顕徹会長の法話を聞きにいった後は、信心の沙汰という振り返りの会合が設けられます。内容は、ほとんど記憶力、理解力テストのようなものです。自身の信仰についての沙汰という意味での信心の沙汰は殆どありません。これが平次郎の青年時代の(3)と同じです。

また、講師部員として活動をしていると、とても真剣に我が身の後生の解決に悩んだり、大変な人生の苦しみの中から親鸞会の教えに出会って真剣に救いを求める会員に出会います。しかし多くの場合、当の講師部員より自分自身の浄土往生を願っているので、相談をされても自分自身の中から出てくる言葉をもっていないので「高森先生はこう仰った」「高森先生の話を聞きに行きましょう」しか言うことがありません。これが平次郎の青年時代(4)にあたります。


実際この作品中でも、平次郎は困っている人に対して自分の言葉ではなく、「親鸞聖人はこう仰った」「親鸞聖人のところへ行きましょう」という場面がほとんどです。こう書くと、「我等親鸞学徒は更に珍しき法をも弘めず」と言われる親鸞会会員の方もおられると思います。もちろん、「親鸞聖人はこう仰った」ということ自体が悪くて、自分の言葉で語ることがいいと言っているのではありません。大事なことは、「親鸞聖人がこう仰った」というお聖教の言葉と自分自身の信仰や問題意識が結びついていないことです。言い替えると、一度自分自身という身体を通していないお聖教の言葉は、どれだけ並べられても、本当に真剣に救いを求めている人には大した力にならないということです。


そして全体を通して前述しましたが、平次郎は「自身の後生の一大事の解決」とか「どうしたら救われるのか」ということで葛藤する場面が描かれていません。出てくるのは、「なぜ悪人が救われるのですか?」という教義的学問的な疑問がほとんどです。
親鸞会講師部員もこれと同じです。日々の活動に追われて余裕がないこともあり、また講師部員になったのだからいつか何とかなると思っている人もあり、あるいは講師部歴何十年という先輩の姿を見て自分はとても救われないだろうとあきらめている人もあり、いろいろと理由はありますが「自身の後生の一大事の解決」「どうしたら救われるか」を本気でただ今なんとかしようと悩む人はほとんどいませんし、そんな人は遅かれ早かれ講師部を辞めています。


平次郎の晩年=親鸞会親鸞会講師部員の未来

映画の終盤で、平次郎は晩年歎異抄を記す場面が描かれています。

アサ、机の原稿を見て、
アサ「また、聖人さまの教えについて、書かれているのですか」
唯円「ああ。親鸞聖人の教えを間違って伝えている者が後を絶たないからな。歎かわしいことだ……」
アサ「本当に……。聖人さまがお聞きになったら……」
唯円「だからだよ。このままでは親鸞さまに会わせる顔がないからな……」
人は、なぜ、歎異抄に魅了されるのかP191)

歎異抄は確かに、そのような動機で書かれている本なのでこのような場面が出てくることは何の不思議もありません。
しかし、この「唯円房=親鸞会講師」として見ると、映画制作に関わった親鸞会講師の見る親鸞会の未来が見えてきます。

この先いつになるか分かりませんが、高森顕徹会長が会員の前で話をしなくなる時が来ます。そこから時代が過ぎれば高森顕徹会長の言っていたことと違うことを主張する講師部員が出てくることでしょう。
前述した映画の場面の「聖人さまの教え」を「高森顕徹先生の教え」に置き換えるようなことが起きるということです。


歴史を見れば、法然聖人の時も、法然聖人がおられなくなった後「これが法然聖人の教えだ」という人が多く現れ浄土の教えはいろいろな派に分かれていきました。浄土真宗も、親鸞聖人がおられなくなった後、いろいろな派に分かれて行きました。こう例えると、親鸞会会員の方は怒られるかも知れませんが、近くはオウム真理教も教祖逮捕の後は分裂をしています。
つまり、親鸞会高森顕徹会長がいまのように話ができなくなった後は同じように分裂をしていくということです。


そうなった時を見据えて、このアニメ映画「歎異抄をひらく」に深く関わった講師部員は、自身を唯円房になずらえて「私は高森顕徹先生からこのように聞きました」と主張することで、高森顕徹会長の教えたことと違うことをいうものを歎いて発信をし続けるという決意表明をしているのがこの「歎異抄をひらく」だと思いました。それは同時に、「高森先生から直接聞いた」記憶と共に一生を終えていく決意でもあります。そこに自分自身の往生や今後の会員の往生はあまり問題になっていないように感じます。これが映画「歎異抄をひらく」で予想される親鸞会親鸞会講師部員の未来です。


ただ、どれだけ親鸞会講師部員が「高森顕徹先生の教えと異なるを歎く」としても、そもそもの話として「高森顕徹会長の話」が「歎異抄」で「歎異」されているわけです。ですから、「歎異抄」で「歎異」された「高森顕徹会長の教え」をどれだけ正確に守ったとしても、それは「高森顕徹会長の教えについての歎異抄」であって、親鸞聖人の教えを伝えているわけではありません。

まとめ

作品全体を通しての、伝わるものがない感じは主人公が、映画制作に関わった親鸞会講師部員だと理解するとよくわかりました。
最後にこの記事を読まれている現役会員の方に向けて一言書きます。

どれだけ「高森先生がこういわれた」と聞いたとしても、貴方はそれで本当に救われるのでしょうか?その「高森先生がこう言われてる」ということは、本当にお聖教に書かれていることなのでしょうか?「歎異抄」のようにどれだけ「○○の話は高森先生の教えと違う」と歎いたところで、自身の往生が定まっていなければ意味のないことです。「異なるを歎く」ならば、親鸞聖人と信心が異なることを歎くのが、本来の歎異抄が書かれた趣旨ではないでしょうか?

一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて『歎異抄』といふべし。
歎異抄後序 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P854)

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